郷土の歴史と古城巡り

丹波 福知山城をゆく

(2019.3.24~2019.10.31)


 
 
 今回は丹波の福知山城です。あいにく福知山市は曇り空だったが、城は整然と整備されていて、すぐに登城することができた。復元天守からは、市内が一望できる。丹波の歴史に思いを馳せるのには最適な場所となった。
 
 丹波国は明治に京都府と兵庫県に分けられ、西部が氷上郡(丹波市)と多紀郡(丹波篠山市)が兵庫県に編入され、北・東・南部は京都府側に編入された。京都側の丹波にはあまり足を踏み入れたことがなく、その歴史を探るいい機会となった。



 




 





▲周辺城郭位置図




福知山城のこと         京都府福知山市字内記
 
 

 福知山盆地の中央、西から東に延びる丘陵の先端にあって展望がきき、周囲は急な断崖となり、山麓には由良川と土師川(はじがわ)が天然の堀となって堅城を成していた。城の建っている丘陵は横山と呼ばれ、天文年間(1532~1555)丹波国天田郡で勢力を伸ばしていた横山・塩見氏の居城横山城があった。

 永禄8年(1565)横山・塩見氏は丹波黒井城主赤井(荻野)直正によって滅ぼされたと伝わる。一説に明智光秀の丹波攻めのときに滅ぼされたという。
 
 天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は八上城(城主波多野秀治)、黒井城(城主萩野直正)を落とし、丹波を平定した。

 明智光秀は、横山城を福智山城と改名し城代に藤木権兵衛と三宅弥平次(明智秀満)を置き城の大改築をした。光秀は、天正10年(1582)本能寺の変で信長を討ったものの、山崎の戦いで秀吉に破れ、敗走中に落武者狩りにより殺された。
 
 その後、羽柴秀吉は丹波を羽柴秀勝(織田信長の四男)を亀山城主として福知山城も預けた。そうして城代として杉原家次が入る。家次病没のあと、小野木重勝(おのぎしげかつ)が城主となる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、小野木重勝は西軍につき、東軍の細川忠興の田辺城(舞鶴市)を攻めた。城主の細川忠興は関東出陣中で、忠興の父幽斎留守を守っていたがよく防戦し和議を結び城を開城した。関ヶ原の戦いの決着後、細川忠興はただちに田辺城に向かい陥落させた。

 後有馬豊氏が六万石で入り、城郭や城下町の完成をみている。遺構の輪郭はほぼ有馬氏のときのものと考えられている。


 
 



▲城図(国立国会図書館蔵)に大手口から天守への通路書込み
 本丸までは、北側の大手門からいくつもの城門をくぐる必要がある。
 
 


 明治4年(1871)福知山城は廃城となり、建物は払い下げられ、二ノ丸は埋め立てられた。二ノ丸の建物が明治20年(1887)に取り払われ、建物の一部や瓦が寺院や民家に使用された。ただ、本丸に続いていた二ノ丸のあった台地がすべて削り取られた。二ノ丸の登城路付近にあった銅門(あかがねもん)番所が大正5年(1916)に天守台に移築された。昭和61年(1986)に大天守、続櫓、子天守が復元された。そのときに、銅門番所が本丸に再移築された。

 本来本丸・二ノ丸・伯耆丸・内記丸と連郭式城郭で繋がっていたのだが、本丸と二ノ丸以外にも伯耆丸と内記丸の間がJR福知山線の建設に伴い分断されたため、すべてが独立丘陵になっている。

 



アクセス
 
 
南のアーチの橋を渡り、天守に延びる登城路を歩けばすぐだ。


 
              ▲新たに作られた登城路 
 


 天守台の石垣は大小のあまり加工されていない自然石とともに多くの石仏、石塔、五輪塔などが転用されている。隙間が目立ちこれでよく崩れないかと心配になるが、これは野面積みで水はけがよくしっかりしているという。
 
 


▲石仏・石塔等が利用された石垣
 


 天守の東側に大きな井戸がある。深さ50mもあり海抜43mなので海より7m深く掘っており、今だに水をたたえている。
 

 

▲豊盤(とよいわ)の井
 


丹波北部にある福知山城の大天守からの展望は福知山(由良)盆地の隅々まで見える。  
 
 
 
▲北西 二ノ丸越しに由良川(音無川)が見える ▲北部
 


 
▲南西部 中央JR福知山線                         ▲西部
 



▲東部 由良川は綾部市に至る




航空写真で見る福知山城周辺の移り変わり 
 

▲昭和23年の航空写真 (国土交通省)   



▲現在 by Google Earth
 
 

  昭和23年(1948)には、川まで伸びていた丘陵は寸断されている。南にはJR福知山線が敷かれ、南に広がっていた田園がほとんどなくなっているのがわかる。

  この土地は盆地の最低湿地であって、由良川と土師川の合流地点に当たるため氾濫に悩まされてきた。
 
 


雑 感
 
  城の位置を西から東に延びる丘陵の先端と書いたが、現在は丘陵の途中が寸断されその表現は的確ではなく、最初に「かつては」との但し書きを入れるべきかもしれない。都市開発の波が、古き遺跡を飲み込んでいく中で、消えてゆく歴史的文化遺産の再生を願った人たちの思いが天守、続櫓、小天守の復元に繋がったのだろう。失ったものも大きいが、残されたものがそれを補っているようだ。

 天守台の石垣を初めて見たとき、埋め込まれた石仏や石塔の多さに驚いた。これらは近郊の寺院などから利用しているという。
 転用については、当時、信長が安土城大手の石段に埋め込んでいる。また、信長家臣の荒木村重も有岡城の天守の石垣に使っている。

この地域は、石材の調達が難しい土地柄であり、築城を急ぐあまりなりふり構わず利用したのか、それとも何らかの意図があってのことなのか、難解である。
 
 




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