郷土の歴史と古城巡り

丹後 田辺城をゆく


~ 細川の古今伝授の田辺城 ~



▲城門 二階が資料館




▲模擬二層櫓
 



▲本丸内 左城門・正面櫓
  



▲天守台 この上には天守は建てられなかったという
 



▲本丸北側の石垣                  
 



▲明倫小学校正門(田辺藩の藩校の面影を残す)




 舞鶴引揚記念館を見るために舞鶴市に訪れたとき、街中で、大手通という地名標識を見かけ後日調べて見ると、そこが城跡であることを知った。そのことがあり、今度は城跡巡りにやってきた。
 今は舞鶴若狭自動車道が開通して、中国自動車道の吉川ジャンクションから丹後の舞鶴や若狭方面へのアクセスが容易になり、播磨と丹波・丹後が身近になっている。



 





田辺城のこと  京都府舞鶴市南田辺 
 

 舞鶴湾(西港)の南岸の平野部にある。田辺城は、別名舞鶴(ぶがく)城ともいう。城郭が鶴が舞う姿からそう呼ばれていたという。

 戦国時代に織田信長の命により丹後の一色義道を滅ぼした細川藤孝(幽斎)が丹後一国を得て、最初宮津城を本拠としたが、天正8年(1580)より加佐郡八田村に3年かけ城を築き,城名を田辺城と名付けた。

 東西に伊佐津川と高野川に挟まれ、南東は深い沼地で西北には舞鶴湾を臨む要害の城であった。
 
 
 
▲細川藤孝の築城当時の田辺城図 (丹後郷土資料集より)
(大手が南にあり、京口ともいい京都方面に続く。)
 


 細川忠興が関ヶ原の戦功により豊前小倉(33万9,000石)へ移ったあと、信濃飯田から京極氏が入部し、大掛かりな城郭の拡張をした。京極氏が但馬豊岡に移封したあと、京都所司代であった牧野氏が入封し、城郭の再普請をし西側に町割りが行われ商人・職人を招き入れ城下町が形成された。牧野氏は幕末まで藩主を勤めた。


 





▲田辺城古城絵図 国立国会図書館蔵 
※牧野氏時代の城図 大手は西に変わっている
 


 現在城跡は舞鶴公園として整備され、模擬の二層櫓「彰古館」が昭和15年(1540)に復興され、城門は平成4年(1992)に建設された。本丸を取り巻いていた水堀はすべて埋められたが、城下の町割りなどはよく残っている。
 
 


▲舞鶴湾古写真 (日本史蹟大系より)
 
 
 ▲昭和23年(1948)航空写真 (国土交通省) 


▲現在  by Google Earth



田辺城の攻防戦(関ヶ原の前哨戦)

 

 
 細川藤孝(幽斎)が入国して20年後の慶長5年(1600)徳川家康が会津上杉討伐に出かけた隙をみて石田三成が会津に向かった豊臣大名の妻子を大阪城に人質をとることにより家康との仲を裂き、味方につける方策をとった。その動きを知った黒田長政や加藤清正らの妻は大阪の屋敷を脱出してことなきをえたが、忠興の大阪屋敷にいた妻ラシャ夫人※は、人質となることを拒否したため、石田方の兵に囲まれ自害した。 
 ※遡ること18年、天正10年(1582年)6月、明智光秀が本能寺で織田信長を討ったため、珠(ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉されたとも云われている。

 三成は人質作戦を半ば中止するも、細川忠興が徳川につくことが明らかになったため、福知山城主の石田三成は小野木重勝を中心とした近隣の諸大名に出陣を命じ。約1万5千もの大軍が丹後細川の拠城に向かった。そのころ細川忠興は徳川の会津攻めに加わり、その留守を父の幽斎 (藤孝)が守っていた。宮津城にいた藤孝は三成方の攻撃を知って本拠の宮津と支城を燃やし、籠城を覚悟で堅城な田辺城を選び、わずか500ほどの兵で立て籠もった。大軍に取り囲まれ当初激しい攻撃が繰り返されたが、堀の橋板を外すなど抵抗し、よく持ちこたえ、そのあとこう着状態が続き、50日程たったころ、朝廷側が細川幽斎(藤孝)の死で「古今伝授」の伝道が絶える事を憂慮し、後陽成天皇の勅命により双方兵を引く条件として開城を促し、幽斎はこれを受け入れた。城を明け渡した幽斎は丹波亀山城主前田茂勝に預けられた。




田辺と舞鶴の地名由来

    加佐郡古代の郷 刊本では田辺は田造と表記されている


 
 田辺という地名は、平安期に加佐郡10郷の一つ田辺郷からきている。江戸時代城下町は田辺町と呼ばれた。その田辺が舞鶴と呼ばれるようになったのは、明治2年(1869)版籍奉還の際、明治政府の命により田辺藩が舞鶴藩に改称された。それは紀伊国(和歌山県)の田辺藩と区別するためであった。舞鶴藩は2年後の廃藩置県で藩名は消えることになったが、舞鶴町は、現在舞鶴市となり、田辺の地名は舞鶴市の大字として北田辺、南田辺として継承されている
 



雑 感
 

 田辺城の絵図をみると、堀を厳重にめぐらした縄張りでさぞ名城であったと思われる。しかし明治以降堀が埋められ、天守台と本丸の一部の石垣のみがかろうじて残されたという。そのあと昭和と平成に模擬櫓、城門が整備されている。
『丹後田辺府志』(江戸時代)の中に田辺城の城門(北門・西門)の2枚が細かに描かれているのがわかった。


 
 
▲城西門 侍と職人・商人等が自由に行き来している




▲城北門 船着場、城下への橋が描かれている。
 


 これが古城図のどの部分を描いたものかをみてみると、ほぼ見当がつき、失われた幻の城が確かに存在していたことを感じ取ることができた。
 




 
 しかし、城図の初期のものや最終のものを見てみると、復興された隅櫓の形状や位置は理解できるのだが、本丸に入る立派な城門については、ありえない位置(埋められた堀の上)に建てられており、それは町づくりの拠点のための創作建築物とわかり、復元という観点からいえば少し違和感を覚えた。

参考:『日本城郭体系』、『角川日本地名辞典』


コメント一覧

takenet5177
返事
私のブログが参考になれば嬉しいです。
鷲谷城州さんのリンクをのぞかせてもらいましたが、幅広い合戦記とそこから学ぶべきことをわかりやすく説明されているのがいいですね。
鷲谷 城州
初めまして
http://washiya.sapolog.com/e490779.html
初めまして、鷲谷と申します。

この度田辺城の戦いを題材にした記事を書かせていただいたのですが、その際にtakenetさんのこちらの記事を参考にさせていただきました。

建物がいろいろと復元されているのは嬉しい限りですが、堀の上に城門が建っているのは残念ですね。

移築できればいいですが、難しいかもしれませんね。

それと、誠に勝手ながら自ブログにてtakenetさんのこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!
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