郷土の歴史と古城巡り

但馬 此隅山城跡

【閲覧数】4,369(2012.8.18~2019.10.31)


 
 但馬地域では、まだ高峰の山肌に残雪が残る4月上旬。豊岡市出石町にある山名氏の居城跡を目指した。その目的は、15~16世紀に赤松氏の宿敵であった山名氏の居城此隅山(このすみやま)城跡と有子山(ありこやま)城跡を訪れることだった。

 
 
▼此隅山城跡 南からの鳥瞰 

by google



▼兵庫県北部但馬地域                   



 
中世の雄「山名氏」と「赤松氏」
 
  この但馬国(兵庫県北部)とその西につづく伯耆(ほうき)国・因幡(いなば)国(鳥取県)の3国は、山名氏が二百年余り守り抜いた所領地なのである。その南の中国山地を国境にした播磨・美作に赤松氏がいた。山名にとっては赤松は同時期の最大の宿敵であった。
 
 ※嘉吉の乱(1441)で山名宗全(持豊)は、幕府追討軍の総帥に任命され、赤松満祐を城山城(たつの市)に追い詰め打ち滅ぼした。結果、赤松惣領家の所領は、ほとんど山名氏に奪われてしまった。没落した赤松氏は、長禄の変(1457)でその遺臣が南朝に奪われていた神璽(三種の神器の一つ)を奪還して後南朝の後裔(こうえい)を殺した手柄により幕府より再興が認められ、山名氏との抗争が再燃する。京都を焼き尽くした応仁・文明の乱(1467~1477)のあと赤松政則は播磨守護職に返り咲くが、またしても宿敵山名氏と生野の国境で交戦し敗北。弱体化した播磨は播磨錯乱と呼ばれる争乱に追い込まれることになった。
 
 
 
此隅山城と城主山名氏のこと 出石郡出石町字宮内(現豊岡市出石町)
 
  此隅山城は、応安5年(1372)、山名時義が但馬守護になり、その後200年間13代にわたって但馬を治めている。山名時義の頃、此隅山城を築き、以後山名氏の歴代の居城となった。
 
 



山名氏の興隆
 
  山名氏は元は関東の新田氏の一門から発し、上野国多湖郡山名郷(群馬県高崎市)を本貫地(発祥の地)とし、山名氏を称した。南北朝時代は足利尊氏従い、尊氏が室町幕府を開くと、山名時氏は幕府の要職(侍所・所司)につくとともに、山陰・但馬地方の守護大名として権勢をふるった。
 
  山名氏が最も勢力を極めたのが、山名時義のときで、山城・丹波・丹後・但馬・因幡・美作・紀伊・和泉・出雲・隠岐の11カ国の守護となり、当時の全国66国の内の11カ国を山名一門が占めたため、六分一衆、六分一殿と称され、室町幕府を支える守護大名として最大勢力を持つことになった。
 

 
▼勢力図 明徳の乱直前(1390年頃)

 


 しかし明徳2年(1391)明徳の乱(将軍足利義満の陰謀による山名氏一族の内紛による乱)で但馬・因幡・伯耆の3国に縮小した。そのあと山名時熙(ときひろ)のとき、備後守護に任せられ、一門が但馬・因幡・伯耆・備後・石見・安芸の国の守護となり、管領細川氏に肩を並べるまでの勢力を回復した。
 
 
▼勢力図 山名時熙期(1430頃)

 


 そして嘉吉の乱によって滅亡した赤松氏の所領(播磨・美作・備前)を継承して、山陰(但馬・因幡・伯耆)・山陽(備前・備後・安芸)・播磨にわたる9か国をもつ有力守護に成長して、ついには管領細川氏をしのぐ勢いとなり、山名宗全(持豊)のとき、応仁・文明の乱の西軍総帥となり、この此隅山城に集まった一門は計2万6000騎。その軍勢を引き連れ京都へ出陣している。
 

▼勢力図 応仁・文明の乱直後(1460年頃)

 


永禄12年(1569)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められたことにより、祐豊はより高所にある有子山城(出石城)に居城を移し、城は廃城となった。
 
※参考:「山名氏の城と戦い」 兵庫県立考古博物館
 
 


アクセス      
                 
▼東方面からの鳥瞰 古代学習館模型より
 

 
まずは、いずし古代学習館を目指します。 学習館の左裏の山裾に登り口がある。標高140mの此隅山に築かれた山城への出発点である。フェンスを開けて、落ち葉の階段を登っていく。
 

▼上部(北)が学習館 登山口のマップより        


▼学習館の裏の登山口  
 

 

所々に説明版があり、古墳や中世の山城の基本的な構造がやさしく説明されている。
 


 
 
やや急な山道に入るとロープが用意されている。その先に現れたのは大きな堀切。
 


  
 
 
 どうやら北側からの敵の侵入はここで食い止めているようだ。さらにこの堀切を渡って進むと、中腹の分岐に出た。右方向に進むと土塁が敷かれている。その先は西に伸びる先端部にあたる。


 
 

 


後戻りして、主郭に向かった。山道は岩肌がむき出しになり、南方面が木々の間から展望できる。


 
 

 
 
主郭まで20分ほどであった。大きな自然石を抜けると、主郭は細長い。中央に説明板が設置されている。
 


 


 


 ▼主郭からの西の展望  

 
 

  この此隅山城の主郭は、西方面がほぼ見渡せる好位置にある。ここから見える遠くの山々は残雪を残し、眼下には円山川の支流出石川の流れと、その街道筋が一望できる。
 
 主郭の先を下るとさらに尾根筋に郭が続いている。その先は願成寺跡のある南山麓にいけると思われるが、次の機会にと思っている。此隅山は標高140mのそんなに高い山ではないのだが、なにしろ山全体が城として四方八方防備の手が加えられ一度や二度の探索では城の全貌が見えない山城なのである。
 
   ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
 

◆出石神社 但馬国一宮 
 

                                


▼山名宗全が出石神社に納めた祈願文

 
   祭神は但馬の開発神、新羅の王子の天日槍命(アメノヒボコ)を祀る。山名宗全(持豊)が出石神社に納めた自筆願文(兄時熙との戦いを決意し、山名家一門を統率できるよう祈願した。(翌年勝利する。)が残る。(市指定文化財)
 


◆古代学習館
 


 
 古代学習館は此隅山北麓にあり、周辺には多くの古墳や遺跡があります。館内には、但馬の古代から近世の歴史を多数のパネルと古代遺跡(出土品)が展示されています。普段写真でしか見られない出土品(模型も含め)を目の当たりにできる学習館です。
   山城に関しては平成7年〜11年にかけて此隅山城下の発掘調査が行われ、守護所や当時の暮らしぶりを伺わせる発見がありました。
 


【関連】
有子山城跡
 
◆城郭一覧アドレス


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