郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

因幡 景石城跡 

2020-04-13 09:52:19 | 城跡巡り
【閲覧数】5,195(2013.3.2~2019.10.31)
                                   


 


 
  
 ▲景石城跡と三角山 流しびなの館より

 

▲景石城跡望遠 



  
▲因幡の歴史の道 用瀬は参勤交代の宿場町
 


 鳥取自動車道を走っていたとき「用瀬(もちがせ)」という地名に出会い、最初どう読むのかわからなかく気になった所である。後から、用瀬は流し雛で有名だということを知り、行ってみることにした。
 用瀬町に入ると千代川に掛けられた赤い橋の “流しびなの里用瀬”の表示に誘われるように橋の先の流しびなの館に入った。
 
 

 
▲赤い橋に 流しびなの里用瀬 の表示     



▲用瀬町の案内板(駅前)
 


  よくぞ集めたという多くの年代物の雛人形を堪能したあと、館の最上階にあがり用瀬の景色を眺めると、川向こう東方面に矢じりのような三角の山と、その左に石垣がある山を見つけた。説明板によると、三角の山は三角山(みすみやま)、別名頭巾山(とっきんざん)と呼ばれ修験道の行者の霊山で、左の石垣のある山はお城山と呼ばれる景石城跡だとわかった。


 

▲お城山から見た流しびなの館            



 後日、気になった景石城跡について調べてみると、前に訪れた若桜鬼ヶ城(鳥取市若桜町)の城主木下(荒木)平太夫の配下の磯部氏の城だとわかり、にわかに再訪の計画をたてた。
 


景石城跡のこと  智頭郡用瀬町(現鳥取市用瀬町)
 
 築城時期はわからないが『太平記』によると、延文年間(1356〜61)赤松氏に攻め落とされたとあり、その数年後山名氏の持城となったという。『因幡志』には、天正8年(1580)の秀吉の第一回の鳥取城攻めで、武将磯部康氏(但馬国朝来郡磯部の人)が秀吉とともにこの城を攻略し、城主となったとある。

 当時守護山名豊国は毛利に味方し、幾度となくこの地で激しい戦いがあり、城主の磯部康氏が若桜の城に出向いていた留守中に山名豊国に攻められ、立ちどころに落とされてしまったという。しかし、天正9年の秀吉の鳥取城の二度目の攻撃で磯部氏は戦功をあげたため、3千石で元の城主に戻り、若桜鬼ヶ城主木下(荒木)平太夫の与力となり城を守った。しかし、関ヶ原の戦いで、西軍についたため追放され没落した。

 その後山崎家盛が智頭・八東の2郡を治め、若桜に在城したときには、その家臣が当城に置かれたが元和3年(1617)池田光政が因幡・伯耆両国を領有し、景石城は廃城となっている。
(参考:日本城郭大系他)
 
 

用瀬の地名
 
 地元の人との話の中で別府(べふ)や鷹狩(たかがり)という地名が出てきた。この用瀬には、中世には、用瀬郷と福田、三成、高狩の三つの別符(べふ)があった。それは、平安時代の後期以降荘園ができその荘園の一部が国司免符によって私領地と認められたものが、地名として残っている。高狩は、国司や在庁官人の鷹狩の場であったのだろうし、その他も、この千代川の開発と国衙への官物納入などを条件に認められた地域と考えられている。
 天保15年(1844)の田畑地續図には、用ケ瀬とある



アクセス
 

 ▲景山城図 吉田淺夫氏作図S63 (一部着色,書込み)   
 


 用瀬駅の前を通り、用瀬総合支所に向かい、その裏山につづく道を進んだ。
途中案内に従い右折し谷間に入る。少しばかり進むと、左に城の説明板があり、その近くが車道の行き止まりで、車5〜6台の駐車スペースがある。この先は山麓遊歩道となっている。
 
 
   ▲用瀬総合支所裏の道を進む           ▲案内 板に従い右に入り突き当たりに駐車がある


                     
 
▲この先は、山麓遊歩道になり三角山方面    



▲子持ち松砦方面(城の東側)
 
 
▲影石城跡の説明板
 


ここで身支度して、登り始める。上り坂が続き、息があがる。 
 

 ▲登り口                         
 


かなり上部に来た時に、堀切・竪堀がある。いよいよここから城域に入る。
 

  
▲途中の岩の露出                   



▲深く掘られた堀切・竪堀


 
三の丸(物見櫓)に到着。三の丸の奥はやや木が邪魔をするが、町がよく見える
 

 
▲三の丸(物見台) 
 

                  
二の丸に到着。きれいに削平されている。
 

 
▲二の丸                         




▲二の丸から本丸へ
 


二の丸を抜けると、見渡しがよくなり、むき出しになった天然の岩が現れる。その向こうに下界から見えていた石垣が登るにつれ目の前に広がる。
 
 


▲荒れ気味の傾斜と露出した岩


 
▲本丸手前 上部に石垣が見える
 


一部荒れている所も見受けられるが、大手虎口への石段がはっきり残っている。登りきったところには整然と組まれた石塁が待ち受けていた。「築城当時の石垣」と書かれた説明板がある。
 
 

 
▲本丸虎口の石段          


▲築城当時の石垣
  
 


眼下には遮るものがなく、千代川の周辺が一望できる絶景の場所である。
 
 
▲用瀬町とその奥の谷は佐治谷        




▲中橋・ひいな橋を望遠で見る
 

 
▲湾曲した石垣 この上に東屋がある    
 





 
▲本丸 表示板                 



▲本丸の奧の石垣
 


本丸では、地域の住民による野立ての催しの最中。紅白の幕がはられ、茶の湯の席が設けられていた。顔を合わすと「どうぞ入ってください」と親切な声掛けで、風流な抹茶をいただくことになった。
 
 

 
▲地元の住民の野立ての催し                ▲嬉しいおもてなし
 


 本丸の東には、子持ち松砦につづく道がある。その道を少し進みむと案内表示がある。
 駐車場の近くのもう一つの登り口から登ると、ここを通り、城跡の東側に至る。
 
 

▲駐車場上の登り口(子持ち松砦方面)    



▲その道を進むとこの案内板に至る
 
 


雑 感
 
 この用瀬の川上には智頭があり、智頭から駒帰(こまがえり)を経て志戸坂峠越えと、黒尾峠越えの2つ道が古くからあり、守護山名氏と影石城主磯部氏との幾度の戦いは、山名の因幡一国支配には美作・播磨への国境の重要拠点にある影石城はどうしても必要な城だったからであろう。
 それに対し、磯部氏は不覚にも落城の憂き目にあい、それによってより堅固な改修を進めたであろうことは容易に想像できる。また磯部氏の妹が若桜城主木下(荒木)平太夫に嫁していたことが系図にあり、そうであるなら磯部氏の義理の兄木下氏からの築城の助言や援助も受けたのかも知れない。
 
  本丸を取り巻く石垣は天然の岩をうまく取り入れ、敵方に威圧感を与え、こじんまりとしてはいるが急峻な山のため攻撃ルートが限定されて城は守りやすく要害の城であることには間違いないようだ。今回見過ごしたのが、水の手と山麓にある城主磯部氏の居館跡。それと、子持ち松砦跡。次回チャンスがあれば探ってみたいと思っている。
  


◇周辺の散策
                

▲山麓遊歩道の先に三角山神社説明板      


▲三角山女人堂  その昔、頭巾山は女人禁制
 
 
 
▲用瀬駅(JR因美線)           




▲R用瀬 左いなばやしろ、右たかがり
 

 
▲町家の一部が残る              


▲水路のある町
 


 駅前の通りには、千代川から水路がひかれている。江戸の明和6年(1769)と天明3年(1783)に町中を焼け尽くす大火の記録がある。その防火のための町づくりがなされたのだろうか。
 

 
▲流し雛の説明板  





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