郷土の歴史と古城巡り

出雲 月山富田城跡

【閲覧数】5,155 (2012.10.12~2019.10.31)                                   

 
▲月山富田城跡全景(近年整備後) 毛利が尼子攻めに陣を置いた勝山城跡から


▼月山富田城絵図                        
 


▼位置図

 


  出雲で勢力を培っていた尼子氏は晴久のとき播磨に侵攻を企てている。天文5年(1536)美作・備中をおさえ、天文7年(1538)に播磨へと侵攻し、勢力を拡大している。備前・美作・播磨の守護赤松晴政(置塩城主)は尼子の侵攻を食い止めることができず、敗走し、播磨は大混乱に陥ったのである。

 その尼子氏の居城を一度見てみたいと、桜が咲き始めた4月上旬出雲(島根)の月山富田城に向かった。
 
   


月山富田城跡のこと  島根県安来市広瀬町富田
 
  
   月山富田城は、出雲の東部の月山(197m)に築かれた尼子氏代々の居城である。尼子の姓は、京極高氏の孫・高久が近江国犬上郡甲良(こうら)町尼子郷に住み尼子と名乗ったことに始まる。

 そして、次男の持久が、宗家京極氏の守護代として出雲月山富田城におもむき、出雲尼子氏が代々この城を居城として一大勢力を築いた。経久(つねひさ)が基盤を築き、晴久は、山陰・山陽8ヶ国の守護となる大大名となった。
 
  16世紀半ばの中国地方には尼子氏と長門・周防(山口県)の守護大名から戦国大名にのしあがった大内氏があり、2つの勢力が隙あらばの緊迫した状況が続いていた。その大内家では、大内義隆が家臣である陶晴賢(すえはるかた)の謀反で殺されるや、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を倒し、大内氏の旧領を手中にすると、毛利は宿敵尼子を討つべく月山富田城をめざしたのである。
   
 

▼出雲 尼子氏系図
 
 
 
   
 
大内・毛利との戦いの概略
 
 尼子経久・晴久 毛利元就居城郡山城に軍を進める
   天文9年(1540)毛利元就が尼子に従属を示していたが大内義隆にひるがえったため、経久は、晴久に元就の本拠地である吉田郡山城(広島県安芸高田市)を攻めさせたが、尼子軍は大敗した。
 

 第1次月山富田城の戦い

   天文11年(1542)大内義隆軍・毛利元就軍が月山富田城に攻め込むが、尼子は月山富田城を1年4ヶ月の籠城で耐え、ついには大内軍・毛利軍を撃退させ、大内義隆は撤退時に嫡男晴持を失い、毛利軍も壊滅的な打撃を被った。
 
 
 ▼毛利元就            ▼尼子晴久
   VS.  
 


▼尼子の居城を守る10旗の城と毛利の城
 


 
第2次月山富田城の戦い
 
   周防・長門を大内の旧領を手にして勢力を拡大した毛利氏は、永禄3年(1561)尼子晴久が亡くなり、嫡男義久がその後を継ぐとみるや、戦わずして垂涎の石見銀山を手中にし、毛利は尼子の居城に迫った。

  月山富田城の周辺には尼子十旗という堅い守りの支城があったが、毛利軍に次々と落とされ、永禄6年(1563)に宍道湖東の最重要支城の白鹿(しらが)城が落とされるや、永禄8年(1565)毛利軍は月山富田城を取り囲み、総攻撃をかけた。尼子氏も籠城で抵抗するが兵糧尽き、義久は永禄9年(1566)降伏した。
 
 

アクセス
 
安来市を流れる飯梨川(いいなしがわ)を南下し、広瀬町にある市立歴史資料館に向かう。
(歴史資料館は月山富田城の城下にあり、ここで情報を得ることをお勧めします。二階に歴史資料・遺物の常設展示あり。)
 この資料館の背後にある道を上がっていくと、城跡の登山口がある。 
 

▼ 安来市立歴史資料館                                    



▼歴史資料館の背後 城跡につづく
  
 
 
 
▼大手門(表門)跡の入口                                     


▼入口にある案内図
 


 
 少し登りかけると月山富田城の大手門(表門)跡に大石垣があり、その大きさに圧倒される。その先は、ひろい広場になっている。この場所は山中御殿平(さんちゅうごてんなり)と呼ばれ、平成5年〜7年にかけてふるさと歴史広場としてすっきりと整備されている。
 


▼大手門周辺の大石垣                        




▼整備された山中御殿平 
 


 
  いやがおうにも、尼子の本丸に期待がかかる。七曲りというつづら折りの大手道を登り始めると、途中に山吹井戸がある。小さな井戸だが、年中水が枯れないという。
 


 ▼七曲りの入口                            


▼七曲りの途中


 

▼ 山吹井戸 年中水が絶えない                            




 
 山の上部に着くと、みごとな三の丸の石垣が現れる。崩れもなく2段組に整然と石垣が組まれている。三の丸の上はかなり広い。
 
  

▼三の丸の二重の石垣                       



▼広々とした三の丸                    
 
 

 三の丸から二の丸につづく。二の丸からは展望はすばらしく、中海を挟んだ山々が一望できる。そこに、尼子が滅んだ時の毛利の攻撃の進路図があった。城の西の御子守口(おこもりくち)・北西の菅谷口・南西の塩谷口の三方からの総攻撃があったとある。
 


▼二の丸                             
 


▼周辺の地形と攻撃ルート説明


 
▼二の丸からの眺望 中海方面             



▼中海方面のズーム 山麓に飯梨川
 


 
 二の丸から大きな堀切(空堀)をこえて本丸に上る。本丸は長く奧に続く。尼子氏の重臣山中鹿介の供養碑が建てられ、最奥部に尼子氏の代々の守り神として祀られてきた勝日高守( かつひたかもり) 神社がある。
 


▼二の丸から本丸を見る  本丸に入るには回り込むようになる。上からの攻撃が待ち受けている。                                     


▼本丸                 
 


 ▼山中鹿介の供養碑                            




▼尼子の守り神 勝日高守神社
 


 
 このあと、本丸の南山麓に尼子晴久の墓があることを知り、本丸の南につづく道(急な登山道)を下ることにした。
山麓の道に降り、晴久の墓を訪ねる。
 
 ▼尼子晴久の案内板                   


▼晴久の墓(宝筐印塔)
 


 
 そのあと、城南の谷間に位置する塩谷地区を歩き、塩谷口を上り、山中御殿跡にもどる。

 
 ▼塩谷口                            



▼城門前に出る
 
 


 次に、山中鹿介の像のある太鼓壇に向かう。その一角にりりしい山中鹿介の銅像がある。
 


▼山中鹿介の銅像                     


▼太鼓檀から見た月山
  
 


 月山富田城を飯梨川の対岸から眺めると、均整のとれた月山を見ることができた。川べりで見つけた案内板には、ひろせの多くの史跡が紹介されていた。
 
 
▼対岸の飯梨川から見た月山        




▼ひろせの観光・史跡案内 見所はあちこちに
 
 

  飯梨川流域は、上流で古くから砂鉄を採るため真砂を崩して鉄穴(かんな)流しが行われたため多量の流砂がもたらされ、川の底が高くなるいわゆる天井川となり、江戸期から近年まで洪水や堤防の決壊が何度もあったという。広瀬町地区では尼子氏の遺跡が川床から発掘され当時の遺構が確認されている。 
 
 

雑 感
 
  月山富田城は、中世・戦国期を代表する巨大な山城だと感じるには、そう時間はかからなかった。月山という険峻な山に築かれ、飯梨川を天然の堀とし、多くの曲輪をもつ。整然と残されている石垣は、尼子氏の頃のものではなく、近世の堀尾氏の時代のものとされるが、中世から近世への築城方法の変遷を知ることのできる見本的な城とも言えるのだろう。周辺にはその要害の城を取り巻く十旗の支城がある。それぞれの城が機能して出雲を守る鉄壁の城となしたと思えば、いつの日かそれらも見てみたい。

 尼子氏が中世出雲の地に根をおろして6代170年。その栄枯盛衰の歴史の足跡がそこかしこに残されていた。また訪れたい城跡である。


【関連】
吉田郡山城跡(安芸高田市)
尼子山城(赤穂市)

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