【閲覧数】4,828(2011.12.16~2019.10.31)
▼全景
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▼西からの鳥瞰
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▼恒屋城と関係諸城
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恒屋城(つねやじょう)跡のこと 神崎郡香寺町恒屋(現姫路市香寺町)
大倉山の南、棚原山の東に恒屋谷(中寺・恒屋・中村・久畑)があります。この谷に恒屋川が流れ、東に小高い山があり、その山は通称城山と呼ばれていました。 恒屋という地名は、方言で「つのや」と発音されることから、自然地名の角谷が語源で、谷の地形が、土師(はぜ)の片山古墳から北西を眺望すると、城山の方向へ角状に恒屋谷が延びていることからと考えられています。
城主は、恒屋氏で赤松氏の臣下として諸々の文献に現れますが、築城年は、嘉吉の乱(1441)後の諸説があります。赤松氏の臣下としての「奉行恒屋方」、「九条家文書」にも恒屋姓が散見されるという。城主恒屋光稿の長男の恒屋光氏は嘉吉の乱で、赤松満祐の呼びかけで書写の坂本城に出向いていることがわかっています。赤松宗家の置塩城主赤松則房を攻めて、討伐されたといいます。
系図では、恒屋正友は長水城(宍粟市)城主宇野下総守政頼の五男で、恒屋氏の養子になったとされています。秀吉との戦いでは、正友は実父政頼とともに長水城に籠城したとされ、長水城が落城したあと許されたという。そして、正友は九州に移って黒田家に仕えた。
参考:「日本城郭体系」、「角川日本地名大辞典」)
昭和51年地元の人たちの手によって、城山が尾根上に築かれた大規模な山城であることが明らかになりました。以後関係者や行政によって城跡と山麓の屋敷跡の調査がなされてきました。
前郭(前城)、後郭(後城)からなる城跡は、階段式に削平地と土塁・堅堀・畝掘の遺構がよく残り、瓦や古銭・陶磁器などが出土しています。また山麓には、花村将監跡と伝える居館跡などが残っています。
▼恒屋城採取遺物
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▼恒屋城出土軒丸瓦・軒平瓦拓影(丸瓦は銀杏葉と藤の紋)
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・「恒屋城 歴史をつなぐよもやまつづり」より
アクセス
北恒屋公民館前の広場に駐車して、お堂の見える城山に向かいます。角々に案内板があり、白塀のある民家の間を抜け、祐光寺の裏を通り、山裾に入ると登山口があります。「城山登山口 前城まで20分」とあります。
▼角目に案内板があります
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▼城山登山口
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▼途中「前城お堂」の表示
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▼お堂
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しばらくするとお堂が見えます。お堂からは、さえぎる物がなく、南部かよく見渡せます。その前の南斜面上に幅の広い竪堀があり、お堂の後ろ側にもあります。
▼堅堀の跡
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次に向かうお堂の上部の登山道沿いに五輪塔が並んでいます。ここでの合戦の犠牲者の墓でしょうか。
▼登山道端の五輪塔群
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この上に数段の削平地があります。前城といわれるところです。前城の北には土塁があり、その上を歩くことになります。 中ほどに大きな空掘があります。
▼土塁の道
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▼道に沿った掘りが続く
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▼空掘
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▼空掘 かなり下まで続く
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後城に近づくと土塁の右に空掘が続き、2箇所の堀切の上にいくつもの曲輪が後城(本城)まで続きます。本城の周りには帯曲輪があります。
▼本城の裾
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本城手前の西側あたりから西の街道筋がよく見え、香寺荘周辺にあったとされる居館跡周辺が一望できます。
▼香寺荘、中村構跡方面
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▼香寺荘と棚原山
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▼香寺荘のズーム
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▼北西部の展望
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本城の南からは、歩いてきた尾根筋と南の町並みが一望できます。また北西の街道筋もよく見えます。この本城の東側は、急坂の傾斜が防御になっています。
▼本城手前から南を望む
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▼本城から南方面
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▼本城の北
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▼本城の北東
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雑 感
恒屋氏の謎。恒屋氏は、赤松の家臣でありながら城の規模が大きいこと。赤松の惣領家の置塩城主を敵にまわしたこと。秀吉の中国攻めに対し、長水城の父宇野氏とどう向き合い、生き延びることができたのか。恒屋氏の城の形状と行動に謎が残ります。
それを知ってか知らずでか、十数基の五輪塔は黙して語りません。
【関連】
・恒屋城②
・置塩城② 最後の当主赤松則房
・広瀬宇野氏滅亡後の宍粟
◆城郭一覧アドレス