郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

広瀬宇野氏滅亡後の宍粟

2020-09-13 10:31:12 | 城跡巡り


▲宇野氏が活躍した広瀬(宍粟(しそう)市山崎町)の鳥瞰図 by Google Earth






広瀬宇野氏滅亡後の宍粟               
                

 宇野氏は室町期から中世・戦国時代を通じて赤松氏のナンバー2として宍粟郡広瀬(山崎)にあり約200年余りの間、播磨守護代と西播磨八郡の守護代を勤め宍粟郡を統治している。最後の当主宇野祐清のとき羽柴秀吉軍により、立て籠る長水城を落とされ、千種町で追手の木下平太輔(荒木重堅(しげかた))、蜂須賀小六・家政父子により討ち果たされた。今から440年前の天正8年(1580)5月10日の事である。
 ここでは宇野氏の滅亡後の天正8年から元和元年(1615)の35年間の宍粟郡の戦後処理と新領主とその動き等について郷土資料集第二集をもとに、年次順にとりあげた。


▶天正8年(1580)5月12日長水城大手に当たる田恵村に禁制が掲示される

 長水城落城の二日後禁制が掲げられた。その場所は長水城の大手で現在の山崎町宇野字構の伊水小学校の地。禁制(※1)の旧蔵者は山崎町宇野直近の居住者であることから、現在の宇野は田恵村(※2)であったと考えられる。従来はその読みから山崎町田井村と誤認されていた。


 




 なお、平成24年伊水小学校の背後の宇野構の県の発掘調査で、規模の大きな石垣が発見されたが、それは長水城落城後のものとする調査結果が出ている。落城後の秀吉の時代に、長水城の山麓周辺に新しい町場が形成されたようで、上町(かみまち・かんまち)、中町、下町の地名が残され、現在下町が自治会名として継承されている。ちなみに上町が明治になって、長水城主宇野氏にちなんで宇野の地名が生まれている。


※1 禁制は、村落、寺社などが軍隊の乱暴から免れるため、支配者の武将に願い出て金銭等の代価を支払い下付された。
※2 田恵村 このまま「たえむら」と呼ばず、「たいえ」と呼べば和名類聚抄の高家郷に比定できる。もしくは田以恵の以の字の脱落か。長水城の大手には高家荘という中世の公家・万里小路(までのこうじ)家領の館があった。高家とは高家里(郷)のことで、都多(太)川(伊沢川)の河口の庄能(塩村)以北の伊沢川流域を指している。



▶天正11年(1583))宍粟郡広瀬城に神子田半左衛門正治配置

 賤ケ岳(しずがたけ)合戦(※3)の所領配置により、宍粟郡広瀬城(篠ノ丸城カ)に神子田(みこだ)半左衛門正治が配置された。(『秀吉事記』)内容は前代を踏襲しているため、神子田氏は宇野氏のあと天正8年より宍粟領を有していたと考えられる。
※3 賤ケ岳合戦は、天正11年(1583)近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ケ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。



天正12年(1584)神子田半左衛門正治改易

「長久手戦話」に、「中国出、太閤黄母衣(きぼろ)衆、後播州広瀬領主 改易 神子田半左衛門」とある。広瀬領主神子田正治は小牧・長久手合戦で無断戦線離脱を咎(とが)められ改易された。
 翌年の天正13年8月13日付「羽柴秀吉朱印状」には秀吉は脇坂安治(※4)に、神子田正治とその妻、縁者を決してかくまうことのないよう厳命している。
※4 脇坂安治は、賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主、伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代


▶同年7月18日黒田官兵衛孝高、羽柴秀吉より宍粟郡一職を与えられる
 (「黒田家文書」)


▶天正15年(1587)7月3日 黒田勘解由(黒田官兵衛孝高)豊前国へ移封
 (「豊臣秀吉領知朱印状写」『黒田家譜』)


同年木下勝俊が宍粟郡を支配下に置く
 (同年カ)11月16日宍粟郡山崎村に新町を開設す (「木下勝俊書状」)

 このとき、山崎村と山田村を結ぶ一筋の町が生まれた。山崎町の誕生である。
 木下勝俊は龍野城主 天正15年~文禄3年(1598)
 ちなみに、この木下勝俊に典医(医師)として仕えたのが山崎闇斎の祖父浄泉と伝わる。


▶慶長5年(1600)宍粟・佐用・赤穂の三郡が宇喜多氏の支配下となる

 広瀬に宍甘(しじかい)太郎右衛門、牧藤佐衛門家信が在番(「宇喜多秀家書状写」、「沼元文書」、『久世町史』資料編1編年史料)


▶慶長期(1596~1615)宇野祐清の子「山崎基久」黒田家に仕える

  黒田家中には祐清の子山崎基久以下、小林久重・常屋正友・船曵近正・新免宗景とその子宗重等、宇野一族・家臣も仕官している。ちなみに山崎茂右衛門基久150石、新免宗景2,000石、同宗重300石、同右衛門300石とある。(「慶長年中士中寺社知行書附」『黒田三藩分限帳』)

 ここで特筆すべきことは、宇野当主祐清の血を引いた末裔の存在が確かめられたことである。山崎家が所持する系図に、宇野家臣小林氏に守られて筑前に行く途中、祐清の妻が男子を生んだとあり、それが山崎茂右衛門基久とある。
 さらに系図には祐清の妻は高砂城主梶原駿河守景則ノ女とあり、黒田分限帳には梶原弥次兵衛 景鎮、駿河守景則孫と記されている。
 ただし、三木城合戦のとき、三木城への兵糧の供給基地であった高砂城の城主は梶原平三郎景行とされ(『高砂町史』)、系図内容については検討を要する。
 次に三男宗貫は、美作(美作市大原町)竹山城主であり、宇喜多秀家の没落後、黒田家に仕えている。
 さらに、四男正友は、播磨(香寺町)恒屋城主で、秀吉軍に落とされたものの、これもまた黒田家に名を連ねている。

 戦いにからくも生き延びた宇野一族が、筑前の黒田家に仕え、その末裔が今に続いていることは驚きであり、敵味方に関わらず被官を許した黒田家の懐の深さも知ることになった。







宍粟の武将宇野氏を語り継ぐために

 江戸時代の町年寄であった片岡醇徳(じゅんとく)が記した名著『播州宍粟郡守礼交代記』元禄12年(1699)には、宇野氏をして「或る人の曰く、(中略)固滞にして変通の機を知らざりし将と聞こえし。」と記す。片岡醇徳は、「或る人」の弁として宇野氏は播磨西部の山間僻地にして世の変化に適応できなかった残念な武将であると、辛辣な評価をしている。本当にそうであったのだろうか。

 宇野一族は、室町期以来戦国期末期まで赤松一門として二百余年にわたる宍粟郡の領民統治能力や功績を問わずして、敗戦・没落の因となった二大勢力の毛利方につくか織田方につくかの選択能力の無さで烙印を押されたのでは浮かばれない。

 従来中世・戦国期における宍粟の武将宇野氏の歴史は、長水城・篠ノ丸城の落城ですべてが闇に葬られ、空白の中世・戦国史を思わせていたが、近年編集された郷土資料集には宇野氏に関する史料が余すところなく収集されており、これを元に宇野氏が激動の世に宍粟に根を張って生きた証を知り、新しい人物像として広く語り継がれることを願うばかりである。


参考図書
(『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』宍粟市教育委員会平成26年発行)

※山崎郷土研究会発行 会報NO.135 令和2.8.30より転載




◆ 宇野構の石垣  

 
  




▲発掘遺物 一部



【関連】
播磨 長水城 ~宇野氏の最期~
播磨 長水城 
播磨 篠ノ丸城
播磨 恒屋城
播磨 松山城
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