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玉ねぎに追肥(2024/3/12)

2024-03-12 21:03:50 | 楽しい田舎生活
曇り時々晴れ、竹田農園に往きは電車~折り畳み自転車、帰りは合流した妻の車で出かけました。

 平成筑豊鉄道の線路端、菜の花が満開。


 農園に到着、まず、休耕田の刈草をリヤカーで畑に運ぶ。
昨年の夏から秋にかけて刈った草を集めて、年が改まってから少しづつ運んでいる。
遅々として進まなかったが、そろそろ終盤で、あと、4回もリヤカーで運べば終わりそう。

 畑に刈草を運び、今日の刈草は、つくね芋の予定の畝に敷いておく。
リヤカーの底を見ると、ウジャウジャ、小さいダンゴムシと、それを食うのだろう、獰猛そうな肉食昆虫のチビ助。

 ダンゴムシは繁殖力がものすごく、餌は枯草のようで、刈草を積んだり、敷き詰めていると、猛烈に繁殖する。
 生きた野菜は食わないので、いいやつ。
刈草を消化して糞にしたり、自分が肉食昆虫に食われて、その糞になったりで、刈草を有機肥料に変えてくれる。

 お昼時になり、一人バーベキュー。
畑のニンジンを取って持ってきたニンニクと一緒に、ホイル焼き。
ニンジンは、10月に種まきで、成長が遅れていたが、最近になって、大きくなってきた。

 汐巻で釣ったレンコ鯛の一夜干しも炭火焼。

 時々日が照り、ポカポカに。
 ビール美味い。


 食事が終わるころ、妻の車。
今日は、手分けして、玉ねぎ、ソラマメに追肥の油粕を根元に置いていく。(冒頭)
 ネットで見ると、2月3月に各一度追肥がいいらしい。
畝に刈草をしいているので、草も生えず、病気にもなりにくい。
刈草がないと、ベト病にかかり、ラッキョのような貧相な玉ねぎになることがある。

 夕方になり、小雨も降り出して、引き上げる。
車内、今日も炭火で焼いた焼き芋。

 体を存分に動かし、気持ちのいい一日でした。
 
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ニンニクに追肥(2024/3/6)

2024-03-06 18:40:42 | 楽しい田舎生活
昨日の雨も収まり、肌寒だが、今日は雨無しの天気予報。
竹田農園に往きは電車~折り畳み自転車、帰りは迎えに来た妻の車で竹田農園でした。

 途中渡った今川、昨日の本格的雨で、水位が上がり、堰全体から水が流れ落ちている。

農園到着、空き地に置いた空き缶には、60ミリの雨水。

 農園の畑130坪に、10ミリ4トンで、昨日24トンの雨水が注がれた。
一昨日種まきしたニンジン、大根、しっかり発芽することだろう。

空き地には、一昨日畑友達のY氏が、栗畑から運んでくれた、丸太が4本。
春になって、イノシシ防御柵の柱で、腐ってきたものと取り換える。


 お昼時で、火を起こして一人バーベキュー。
畑の野菜は、ニンジンとブロッコリー、菜花。
 ニンジンは、一昨日から収穫を始め、今日は、持ってきたニンニク(購入した)といっしょに、ホイル焼き、バター少々。



 野菜は一日350g食べると、老化を防いで、病気になりにくいそうで、意識的に食べている。
 ピールも美味い。


 午後は、今日の目的のニンニクへの追肥。
3年前から、畑での栽培を始めた。
 種屋さんで買った、ニンニクの球根には、追肥は12月と3月の二回とのことで、今日は二度目の追肥。
 根元に油粕を少々。(冒頭)

 ニンニクは、畑友達のAN氏の畑の隣で、沢山作っている90歳の方がいて、50歳代で脳梗塞で2度倒れ、これはいかんと、ニンニクを毎日一粒食べて、その後発病無し、今も元気と聞き、真似して作り始めたもの。
 3年前から作り始めて、収穫したニンニクは醤油漬け、農園でのバーベキュでジャガイモ、玉ねぎ、ニンジンのホイル焼きに一緒に焼いて食べてきた。
 なるほど、私の健康診断の悪玉コレステロール(LDLコレステロール)の値が改善した。
128→130→一昨年118→昨年秋110と正常値が119でニンニクを栽培・食べ始めた一昨年から正常値に。
 これは、同じようにニンニクを食べる回数が増えた妻も同様。
 悪玉コレステロールが増えると、脳梗塞で倒れることがあり、私の周りにも、脳梗塞で苦しんでいる同年齢の方が何人か。
 ニンニクは、ヤーコンと並ぶ、畑の横綱クラスの健康野菜。

 迎えの妻が来て、帰路に。
車内今日も焼き芋。

 ニンニクの追肥が終わり、やれやれ。

 
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春ジャガの植え付け(2024/3/1)

2024-03-01 19:42:11 | 海の幸、山の幸、楽しく加工
まだ肌寒いが、天気晴れ、往きは電車~折り畳み自転車、帰りは、迎えに来た妻の車で竹田農園でした。

 途中渡った今川、昨日のたっぷりの雨で、堰全体から水が流れている。

農園に到着、空き地に置いた空き缶を見ると、30ミリの雨。

 畑130坪、10ミリで水4トンで、12トンの雨水が、昨日の雨で注がれた。
畑の野菜、元気。

 昼めし前に、今日もリヤカーで休耕田の刈草運び。

今日の刈草は、ソラマメの側に積んでおく。
 明日にでも、ソラマメの畝に敷く予定。

 お昼は一人バーベキュー。
野菜を畑から。
 今は、ブロッコリーと、菜花。



 一日に、350gの野菜を取り、適度な運動をすると、体の老化が防げて、健康寿命が維持されるらしい。
 野菜は意識的に多めに取ることに。

今日もビール。


 午後は、今日の目的の春ジャガの植え付け。
妻が午後到着、すでに買って我が家に置いていた種イモ持ってくる。
 苗屋さんで買ったのが、出島。
 自家採取がアンデスレッド。
70個程植え付け。(冒頭)
夕方になり、引き上げ。
車内、今日も焼き芋。
 宿題の春ジャガの植え付けが終わり、やれやれ。

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味噌作り(2024/2/18)

2024-02-18 16:15:39 | 海の幸、山の幸、楽しく加工
この時期、毎年味噌を仕込んでいる。
結婚して、3年目から始め、やってみるとうまく行き、それ以来、44年、一度まだ味噌が余っていて、作らない年があったが、ほぼ毎年。

 妻が短大の食物栄養学部で勉強した時の、食品加工の教科書を参考に作り始めた。
味噌工場での加工を想定しており、米なんトン、塩なんトンと、スケールが大きいので面喰ったが、使う食材と比率が分かれば良いと、電卓で、計算。

 麹は、自然状態で作るのは無理と、行橋の薬屋で麹菌を買ってきて、米、15キロ、大豆3キロ、塩は総重量の20%で、15+3=18キロの20%で、3.6キロ。

 今回も同様の準備。
麹を売っている薬屋は段々減ってきたが、まだ一軒売っている。
これを3袋購入。

 上手に作る人は一袋でやれるのだろうが、こちらは素人自信なしで3袋。
2日前に、妻が米を蒸し、15キロを古くなり使わなくなった炬燵布団に包んで、15キロ揃ったところで、麹菌を振りかけて混ぜる。
 昨日は、様子見と、端の米が冷たくなったものを暖かい部分と混ぜて、醗酵しやすくする作業を2度。

 昨日の夕方には、麹のいい香り。
 そして今日のお昼から、今度は、私も加勢して、出来上がった麹を3キロの塩とよく混ぜて、麹の発酵のスピードを抑える。

 これを昨晩からよく煮た大豆と、いっしょにして餅つき機を使ってよく混ぜる。

 10回に分けて混ぜるとちょうどよかった。
 混ぜた、麹と大豆は、ソフトボール大に固めて、用意した樽に叩きつけて、中に空気が入らないように詰めていく。
 今回は、中くらいの樽と、小型の樽2つに入れて、出来上がり。(冒頭)
その後、塩0.6キロを、私が詰めた味噌の元の表面にカビ予防で振りかけておく。
 この塩は、一年後、味噌が熟成して食べる時に、自然に味噌に溶けていく。

今日作った味噌は、階段下の押し入れて保管、一年ほど放置、麹の発酵がゆっくりと進み、美味しい味噌になる。

 我が家では、現在、2年前に作った味噌がそろそろ終わりで、一月後には、1年前に味噌を取り出す予定。
 多少表面にカビが生えて、少し捨てるが、いままで大きな失敗はない、味もいい。
 出来た味噌の6割は、我が家と子供たちの家庭で食べて、4割は、周りの知り合いの皆さんに謹呈、なかなかいい味と好評。

 味噌は、体にいい。
私が学生の時過ごした同志会という古い学生寮で暮らしていた時、寮の理事長の石館守三先生(当時薬剤師会の会長をしていた)が週に一回の感話会で、魚の焦げたものが胃がんの元になるというその当時、問題になっていたテーマで、ショートスピーチをされたことがある。内容は魚の焦げが胃に入るは、胃酸と反応して、発がん物質が出来る。しかし、みそ汁を食べるとこの発がん物質が無害になる、と話されたことがある。それ以来、みそ汁は体にいい(胃がんを防ぐと信じている)。
 妻の味噌作りを真面目に手伝う気になったのも、石館先生の魚の焦げと、みそ汁の話が元。

丸2日間の味噌作りも無事終わり、やれやれの一日でした。


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松永安左エ門の博多芸者との再会(2023/11/12)

2023-11-12 13:55:04 | 人生楽しく生きる
九州行路吟(昭和25年8月 経済往来社発行「淡々録」松永安左エ門76歳の手記)
 五月初め、私は野口研究所の山田勝則君や土木技師である鈴木君と一緒に琵琶湖から紀州の北山田、それからズット飛んで九州球磨川の各発電地点を視察してまわった。発電地点の視察の事情を述べることは本稿の目的ではないから別の機会に譲る。
 球磨川を視ての帰り、博多では九州配電社長佐藤篤二郎君の肝いりで、一行の歓迎会が催された。
 何しろ博多は私が実業人としての発祥の地である。私は壱岐の生まれではあるが、福博電車の昔から後に東都財界に立つまで、私を実業人として育んでくれたのも博多であればかつては一度私を政界に送り出してくれたのも博多である。私の博多生活は17年にわたり、その博多生活がいまの老妻に最も苦労をかけた時代である。この頃のことを憶い、「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず」という言葉が、いまにしてひしひしと思われるのも博多である。
 だから私は博多には生みの親より育ての親の恩義を感じ、私の故郷は博多だと思っている。
 こういうわけで今度私が久しぶりに訪博するについては佐藤君あたりから方々へ触れがまわっていたのだろう。歓迎会は大変の集まりになった。私も見る人会う人がみななつかしく老懐を揺さぶられる思いがして、司会者の需めに応じ立って一場の挨拶をした。
 さてそのあとが大変である。歓迎会がはねて懇意の者だけが居残って二次会ということになった。その中に、おえん、おはま、しん吉、ことくといった明治から大正、昭和の初めにかけ博多芸者として天下に嬌名を謳われた女性群が交っていた。女性群といったってもう齢はいずれも七十歳の上、耳が聞こえなかったり、目が見えなくなっていたり、歩行も満足に出来ず孫に手をひかれ、杖にすがってやっと会場に辿り着いたという零丁ぶりで、これがかつては遠山満、杉山茂丸、野田卯太郎、田中義一、犬養毅、中村是公、ずっと若くって広田弘毅、中野正剛などを友達扱いから子ども扱いにして来た連中のなれの果てかいなと、転た今昔の感に耐えなかった。
 この古芸者について面白い咄がある。明治の後年、後藤新平が満鉄の総裁だった時分、後藤以外の満鉄の中心人物中村是公と清野清太郎、それから犬塚信太郎、この犬塚は中村是公と共に偉かったらしい。この連中が大連に酒を呑みに出かけて行き、二時、三時まてバカを尽くす他に芸がないのか、座敷の畳を上げっこして夜中いたずらあそびをしたそうだ。
 その頃大連の埠頭人足の請負業者で、一万何千人もの人足を一手に動かしていた男に相生由太郎という者がおった。商号は福昌公司といったと思う。相生は光洋社の頭目株で、内田良平の兄弟格、労働者の扱いにしても当時としては進んだ考えを持ち、規模の大きい労働者の寄宿舎なんかを作って、なかなか頭のいいところを見せていた。・・・・・・
 この相生が大連で例の犬塚、中村、清野等の遊興仲間に合流した時、博多ほど遊んで面白いところはない。まず当今芸者の粋といったら博多でしょう、といってしきりに博多芸者を吹聴した。
 「そんなに面白いか」
 「面白いか、面白くないか、物はためしだ、一ぺんこっちに聘んでごらんなさい」
 「よし聘ぼう」
 そこで御使者が満鉄本社から博多に向けて立ち、おえん、おはまといった一流どころが国賓として招待されることになった。何でもその時の話によると満鉄の大官連が釜山の波止場に迎えに行き-おそらく幡のぼりを飾りたてた絢爛たる環境であったろう-湧崗子という温泉地、そのれからハルピンとひと月ほども歓迎して帰したということである。
 こういう華やかな過去を持つ女たちであるから、落ちぶれて袖に涙のかかる今の境遇は定めて辛かろう。不自由を喞っているだろうと思いの他、
 「さんざよか事をしたあとですばい。貧乏を苦になぞしておりませんと、それよりとクサ、松永さんがはるばると来んしゃったで生きているうちに顔が見られて、こげん嬉しいことはなかとタイ」
 それが決して自棄でもなく、負け惜しみでもなく、心から今の境涯に満足し、形骸こそ在りし日の面影は失せて、枯木寒巌もただならぬ老婆と変わり果てているが心慨は淡々、実にこの日、この時の余生を怡しんでいることを看取し、私は何か救われたような、そうして久しぶりに人間の魂を見出したようなほのぼのとした明るいおおらかな感興に長旅の疲れも忘れ、本当に心からの一夜の歓を尽くした。
 聞けばこの老いた女の侵入者たちは戦争以来、疎開などのため彼ら同志十年近くも音信を断っていたのだそうで、それが今度の私の訪博を機会に、知らせを得ていっしょに集まり、絶えて久しき対面に及んだという。だからお互いに一別以来の動静やら、疎開先の事情やら、それがどうして、これがどうしてとその喧しいこと。上がり湯でから桶を叩くが如し。
 しかし私はこの夜は一切、無抵抗を決め女たちの跳梁跋扈に身を任せた。女たちは一通り自分たちの身の上話や、相手の消息を聞き終わると、
 「まあ、松永さんタラ、どげんしょんしゃったな。久しうお目にかからんうちに、ああたも頭が白うなって齢ばよりなさったなあ」
 「何だ、自分が梅干しみたいに縮んでしまったくせに-。戦争ではお互いに苦労したなあ。金が要るなら旅さき故少ししかないが、上げるよ」
 「ぞうたん(冗談)は、いいなさっと。ああたにしたっちぁ、売り食いじぁ、ござっせんとな。金も要らん。何も要らん。この頃どの人に会うても、すっきりした人がのうて、なんか世間が狭うなった、小そうなったごと気がしてなりませんじぁもんな。それが今夜松永さんに会うて一ぺんにカラリと空が晴れたごと、スーッとよか気がしとりますタイ、日本にはまだ一人ぐらいはよか男が残っているもんじぁと、さっき姐さんともクサ咄しよりましたとタイ」
 私のことを言われた部分はお世辞ととってもいいが、聞く者の血を湧かすような、この女たちの慷慨談には嘘はない。彼らには求めるところがない。真率心に訴えるところを、そのまま流露しているからだ。この無法というか、天真らんまんというか、少しも作らないそして心底から旧知の遠来をホクホクとして喜ぶ心こそ、仏の涅槃に通ずる「まこと」である。終戦このかた私は絶えてこういう「直卒」「まこと」に接することがなかった。その意味でも、私は今度の九州旅行は大変幸せでしたと思っている。

 知己は多い、されど友は少ない。  ジョンソン


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私も、今は74歳、気持ちは若いつもりで、朝は布団から立ち上がるのが体がボキボキいう感じで、億劫、朝のジョギングも、スピードダウンで、出勤のため同じ方向に歩いてる若い人と同じスピードで、追いつけない。老いは、日に日に体に押し寄せてくる。
 松永安左エ門(日本を代表する実業家、歴史家、茶人、登山家、随筆家、遊び人)の上の手記は、博多芸者の皆さんや、松永安左エ門の逸話、楽しくなる。かく老いたいもの。)
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困ったと思うから困るだけ 松永安左エ門(2023/9/5)

2023-09-05 21:19:57 | 明日が不安な時
松永安左エ門著作集 3巻p396

今更大ホラと笑われるかもしれないが人間、何事も困ったと思うから困るんで、困ることができても困ったと思わなきゃ困りゃせん。横着でもわがままでも無神経でも、困ったことなんかはそう思わんで、より大きく構えて踏みつぶせばいい。ぼくはいろいろ事業にも失敗してきた。破産同様の行き詰まりに当面したことも3度ある。人をなぐろうとしたことも人からなぐられようとしたこともある。普通に考えれば困った困ったの連続であった。しかしぼくは天下国家のために大きく困ったと感じたことはあっても、自分自身のために小さくケチくさく、困ったと思うことは一度だってありゃしない。・・・・・そのへんを僕は一切恐れず、疑わず、怨まず、怠らずで押し通してきた。それで結構ちっとも困らないでやってこれた。

(疑わず、怨まず、怠らず で押し通してきた、松永安左エ門が実践した来たことで、説得力がある。真似していれば、なるようになると思ってくる。 takeda)
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ヒルティ「眠られぬ夜のために(11/9日)」(2023/7/1)

2023-07-01 11:57:13 | 人生楽しく生きる
ヒルティ「眠られぬ夜のために(11/9日)」

 幸運にも中流階級に生まれた人たちは、人生においてつぎの二つのことをほとんど知ることが出来ない。それは、手段や助けを仰ぐために、「よその階段をのぼらねばならないことがいかに辛いか」ということと、いわゆる上品な生活というものがいかにわずかの満足しかあたえないかということである。下層階級の人たちは、第一のことはよく知っているし、第二の上品な生活のほうは、あたまから念頭に置いていない。したがって、このような階級には、そのあらわれかたこそいくらは粗野ではあるが、かえって上層階級よりも、克己力に富んだ高貴な人間が多い。上層階級は、上品だとか洗練されているとかいっても、しばしば酷薄なエゴイズムのたくみに磨かれた殻にすぎないことが多い。最上流の社交界にも、ときとしていわゆる「上流生活(ハイ・ライフ)」全体の空しさをよく見抜いている人たちがないわけではないが、どうしもそれから抜け出すことが出来ないのである。

(T社を不意のリストラで19年前辞めたとき、一番変わったのは、遊び仲間。T社の頭の良い社員の皆さんほぼ全員周りから去り、ラーメン屋の親父さん、左官屋さん、大工さん、瓦屋さん、木工職人、絵描といった自営の皆さんと日頃遊んでいる。日頃の行状は、不良爺さんだが、弱いものいじめしない、自分が良いことをしても知らないふり、骨惜しみせず働く等、高貴な人柄が内に秘められていると実感。)
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ベンジャミン・フランクリンの13徳(2023/5/7)

2023-05-06 21:45:16 | 人生楽しく生きる
○ベンジャミン・フランクリンの13徳(フランクリン自伝 中央公論新社 p190~)

①節制 頭が鈍くなるほど食べないこと。酔って浮かれ出すほど飲まないこと。

②沈黙 他人または自分自身の利益にならないことはしゃべらないこと。つまらぬ話は避けること。

③規律 自分の持ち物はすべて置くべき場所を決めておくこと。自分の仕事はそれぞれ時間を決めてやること。

④決断 やるべきことを実行する決心をすること。決心したことは必ず実行すること。

⑤節約 他人または自分のためにならないことに金を使わないこと。すなわち、むだな金は使わないこと。

⑥勤勉 時間を無駄にしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること。

⑦誠実 策略をもちいて人を傷つけないこと。悪意をもたず、公正な判断を下すこと。発言する際も同様。

⑧正義 他人の利益をそこなったり、あたえるべきものを与えないで、他人に損害を及ぼさないこと。

⑨中庸 両極端を避けること。激怒するに値する侮辱をたとえ受けたにせよ、一歩その手前でこらえて激怒は抑えること。

⑩清潔 身体、衣服、住居の不潔を黙認しないこと。

⑪平静 小さいこと、つまり、日常茶飯事や避けがたい出来事で心を乱さないこと。

⑫純潔 性の営みは健康、または子孫のためにのみこれを行って、決してそれにふけって頭の働きを鈍らせたり、身体を衰弱させたり、自分自身、または他人の平和な生活や信用をそこわないこと。

⑬謙譲 キリストとソクラテスにみならうこと。

(18世紀、アメリカ合衆国建国の父として尊敬されているベンジャミンフランクリンが25歳の時、立派な人になる・徳のある人になるには、この13徳が身につけばよいと、手帳に書き留めたもの。フランクリ自伝で紹介され、日本でも明治の頃から繰り返し紹介されてきたもの。私も中学3年の時クラス担任の先生がガリ版刷りで一項目づつ説明してくれたのをよく覚えている。徳目③規律~物は所を定めておくべし~は今もどこに直したのか分からないと困った時、「物は所を定めておくべし」と、今もよく独り言⑦誠実は、これに違反してエライ目に会って以来特に肝に銘じている徳目。 ④中庸の一歩その手前でこらえて激怒は避けるも 高校生の時、前日夜更かしして睡眠不測の時は、腹がたっても眠いので私の判断が間違ってるかもしれない、だから我慢してこらえる、と言い聞かせて、人間関係が劇的に好転したことがあります。
 これからも、若い人に読み継いで欲しい一節。takeda)
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任小卿(じんしょうけい)に報ずるの書(司馬遷)(2023/4/5)

2023-04-05 16:57:43 | どん底に落ちたとき
任小卿(じんしょうけい)に報ずるの書(司馬遷 史記 平凡社 上p485)

私は怯懦(きょうだ)で、かりそめにも生きていたいとは思いますが、それでも出処進退の分は存じております。どうして、ただ牢獄につながれる辱めの中に沈溺したりいたしましょうか。いったい、下男下女のような賎しい者でも、自決はいたします。まして、追いつめられたわたくしが自決できない筈はありません。それを隠忍して生きながらえ、糞土の中に閉じ込められているような現下の状況に耐えておりますのは、心中に誓ったことを完成しないのが残念であり、このまま死んだのでは、わが文章が後世に現れないのを惜しむからであります。

(紀元前99年に司馬遷が匈奴の捕虜になった将軍の李陵を弁護したため、皇帝の逆鱗に触れ、投獄され宮刑に処せられ、3年後出獄、5年後の紀元前91年に史記を完成させた年に司馬遷によって書かれた手紙。司馬遷と同じ境遇になった、漢の役人の任小卿に宛てた手紙で、司馬遷の心情が偲ばれる。またこうした人材を世に出した中国の底力にも敬服。Takeda)


任小卿については、司馬遷の史記に詳しい(平凡社訳本 下巻p108~)
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内村鑑三 一日一生 7/9日 (2023/3/1)

2023-03-01 13:46:08 | どん底に落ちたとき
内村鑑三 一日一生 7/9日

試練を耐え忍ぶ人は、幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブ書1-12)

栄光は恥辱の後に来る。人に嘲られ(あざけられ)、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視するところとなりて、しかる後に吾人に栄光は来るなり。しかり、恥辱は栄光の先駆なり、開拓者なり。春の夏に先だつごとく、月欠けて後にその満つるがごとく、恥にあうて吾人に栄光の冠をいただくの希望あり。吾人は喜んで人の辱めを受くべきなり。

(T社を19年前リストラ通告され、1年後、本当にリストラされ、この間の1年間は、世間体が悪い、破門された、手のひらを返すような元同僚・後輩の嘲笑、罵倒、等々腰をかがめて這って進むような、しんどい毎日。当時も内村のこの個所を読んだが、それほど印象には残らなかった。いのちの冠を実感できなかったから。19年後の今は、最後まで裏切らない友達に囲まれて、ピールを酌み交わしながら、釣りだ畑だの愉快な毎日。「喜んで人の辱めを受くべきなり」、の指摘そのとおりだと実感される。)
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