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松永安左エ門の博多芸者との再会(2023/11/12)

2023-11-12 13:55:04 | 人生楽しく生きる
九州行路吟(昭和25年8月 経済往来社発行「淡々録」松永安左エ門76歳の手記)
 五月初め、私は野口研究所の山田勝則君や土木技師である鈴木君と一緒に琵琶湖から紀州の北山田、それからズット飛んで九州球磨川の各発電地点を視察してまわった。発電地点の視察の事情を述べることは本稿の目的ではないから別の機会に譲る。
 球磨川を視ての帰り、博多では九州配電社長佐藤篤二郎君の肝いりで、一行の歓迎会が催された。
 何しろ博多は私が実業人としての発祥の地である。私は壱岐の生まれではあるが、福博電車の昔から後に東都財界に立つまで、私を実業人として育んでくれたのも博多であればかつては一度私を政界に送り出してくれたのも博多である。私の博多生活は17年にわたり、その博多生活がいまの老妻に最も苦労をかけた時代である。この頃のことを憶い、「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず」という言葉が、いまにしてひしひしと思われるのも博多である。
 だから私は博多には生みの親より育ての親の恩義を感じ、私の故郷は博多だと思っている。
 こういうわけで今度私が久しぶりに訪博するについては佐藤君あたりから方々へ触れがまわっていたのだろう。歓迎会は大変の集まりになった。私も見る人会う人がみななつかしく老懐を揺さぶられる思いがして、司会者の需めに応じ立って一場の挨拶をした。
 さてそのあとが大変である。歓迎会がはねて懇意の者だけが居残って二次会ということになった。その中に、おえん、おはま、しん吉、ことくといった明治から大正、昭和の初めにかけ博多芸者として天下に嬌名を謳われた女性群が交っていた。女性群といったってもう齢はいずれも七十歳の上、耳が聞こえなかったり、目が見えなくなっていたり、歩行も満足に出来ず孫に手をひかれ、杖にすがってやっと会場に辿り着いたという零丁ぶりで、これがかつては遠山満、杉山茂丸、野田卯太郎、田中義一、犬養毅、中村是公、ずっと若くって広田弘毅、中野正剛などを友達扱いから子ども扱いにして来た連中のなれの果てかいなと、転た今昔の感に耐えなかった。
 この古芸者について面白い咄がある。明治の後年、後藤新平が満鉄の総裁だった時分、後藤以外の満鉄の中心人物中村是公と清野清太郎、それから犬塚信太郎、この犬塚は中村是公と共に偉かったらしい。この連中が大連に酒を呑みに出かけて行き、二時、三時まてバカを尽くす他に芸がないのか、座敷の畳を上げっこして夜中いたずらあそびをしたそうだ。
 その頃大連の埠頭人足の請負業者で、一万何千人もの人足を一手に動かしていた男に相生由太郎という者がおった。商号は福昌公司といったと思う。相生は光洋社の頭目株で、内田良平の兄弟格、労働者の扱いにしても当時としては進んだ考えを持ち、規模の大きい労働者の寄宿舎なんかを作って、なかなか頭のいいところを見せていた。・・・・・・
 この相生が大連で例の犬塚、中村、清野等の遊興仲間に合流した時、博多ほど遊んで面白いところはない。まず当今芸者の粋といったら博多でしょう、といってしきりに博多芸者を吹聴した。
 「そんなに面白いか」
 「面白いか、面白くないか、物はためしだ、一ぺんこっちに聘んでごらんなさい」
 「よし聘ぼう」
 そこで御使者が満鉄本社から博多に向けて立ち、おえん、おはまといった一流どころが国賓として招待されることになった。何でもその時の話によると満鉄の大官連が釜山の波止場に迎えに行き-おそらく幡のぼりを飾りたてた絢爛たる環境であったろう-湧崗子という温泉地、そのれからハルピンとひと月ほども歓迎して帰したということである。
 こういう華やかな過去を持つ女たちであるから、落ちぶれて袖に涙のかかる今の境遇は定めて辛かろう。不自由を喞っているだろうと思いの他、
 「さんざよか事をしたあとですばい。貧乏を苦になぞしておりませんと、それよりとクサ、松永さんがはるばると来んしゃったで生きているうちに顔が見られて、こげん嬉しいことはなかとタイ」
 それが決して自棄でもなく、負け惜しみでもなく、心から今の境涯に満足し、形骸こそ在りし日の面影は失せて、枯木寒巌もただならぬ老婆と変わり果てているが心慨は淡々、実にこの日、この時の余生を怡しんでいることを看取し、私は何か救われたような、そうして久しぶりに人間の魂を見出したようなほのぼのとした明るいおおらかな感興に長旅の疲れも忘れ、本当に心からの一夜の歓を尽くした。
 聞けばこの老いた女の侵入者たちは戦争以来、疎開などのため彼ら同志十年近くも音信を断っていたのだそうで、それが今度の私の訪博を機会に、知らせを得ていっしょに集まり、絶えて久しき対面に及んだという。だからお互いに一別以来の動静やら、疎開先の事情やら、それがどうして、これがどうしてとその喧しいこと。上がり湯でから桶を叩くが如し。
 しかし私はこの夜は一切、無抵抗を決め女たちの跳梁跋扈に身を任せた。女たちは一通り自分たちの身の上話や、相手の消息を聞き終わると、
 「まあ、松永さんタラ、どげんしょんしゃったな。久しうお目にかからんうちに、ああたも頭が白うなって齢ばよりなさったなあ」
 「何だ、自分が梅干しみたいに縮んでしまったくせに-。戦争ではお互いに苦労したなあ。金が要るなら旅さき故少ししかないが、上げるよ」
 「ぞうたん(冗談)は、いいなさっと。ああたにしたっちぁ、売り食いじぁ、ござっせんとな。金も要らん。何も要らん。この頃どの人に会うても、すっきりした人がのうて、なんか世間が狭うなった、小そうなったごと気がしてなりませんじぁもんな。それが今夜松永さんに会うて一ぺんにカラリと空が晴れたごと、スーッとよか気がしとりますタイ、日本にはまだ一人ぐらいはよか男が残っているもんじぁと、さっき姐さんともクサ咄しよりましたとタイ」
 私のことを言われた部分はお世辞ととってもいいが、聞く者の血を湧かすような、この女たちの慷慨談には嘘はない。彼らには求めるところがない。真率心に訴えるところを、そのまま流露しているからだ。この無法というか、天真らんまんというか、少しも作らないそして心底から旧知の遠来をホクホクとして喜ぶ心こそ、仏の涅槃に通ずる「まこと」である。終戦このかた私は絶えてこういう「直卒」「まこと」に接することがなかった。その意味でも、私は今度の九州旅行は大変幸せでしたと思っている。

 知己は多い、されど友は少ない。  ジョンソン


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私も、今は74歳、気持ちは若いつもりで、朝は布団から立ち上がるのが体がボキボキいう感じで、億劫、朝のジョギングも、スピードダウンで、出勤のため同じ方向に歩いてる若い人と同じスピードで、追いつけない。老いは、日に日に体に押し寄せてくる。
 松永安左エ門(日本を代表する実業家、歴史家、茶人、登山家、随筆家、遊び人)の上の手記は、博多芸者の皆さんや、松永安左エ門の逸話、楽しくなる。かく老いたいもの。)
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