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松永安左エ門の旧知の博多芸者との再会録(2018/9/8)

2018-09-08 17:14:26 | 老いて病んで貧乏したとき
九州行路吟(昭和25年8月 経済往来社発行「淡々録」松永安左エ門76歳の手記)
 五月初め、私は野口研究所の山田勝則君や土木技師である鈴木君と一緒に琵琶湖から紀州の北山田、それからズット飛んで九州球磨川の各発電地点を視察してまわった。発電地点の視察の事情を述べることは本稿の目的ではないから別の機会に譲る。
 球磨川を視ての帰り、博多では九州配電社長佐藤篤二郎君の肝いりで、一行の歓迎会が催された。
 何しろ博多は私が実業人としての発祥の地である。私は壱岐の生まれではあるが、福博電車の昔から後に東都財界に立つまで、私を実業人として育んでくれたのも博多であればかつては一度私を政界に送り出してくれたのも博多である。私の博多生活は17年にわたり、その博多生活がいまの老妻に最も苦労をかけた時代である。この頃のことを憶い、「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず」という言葉が、いまにしてひしひしと思われるのも博多である。
 だから私は博多には生みの親より育ての親の恩義を感じ、私の故郷は博多だと思っている。
 こういうわけで今度私が久しぶりに訪博するについては佐藤君あたりから方々へ触れがまわっていたのだろう。歓迎会は大変の集まりになった。私も見る人会う人がみななつかしく老懐を揺さぶられる思いがして、司会者の需めに応じ立って一場の挨拶をした。
 さてそのあとが大変である。歓迎会がはねて懇意の者だけが居残って二次会ということになった。その中に、おえん、おはま、しん吉、ことくといった明治から大正、昭和の初めにかけ博多芸者として天下に嬌名を謳われた女性群が交っていた。女性群といったってもう齢はいずれも七十歳の上、耳が聞こえなかったり、目が見えなくなっていたり、歩行も満足に出来ず孫に手をひかれ、杖にすがってやっと会場に辿り着いたという零丁ぶりで、これがかつては当山満、杉山茂丸、野田卯太郎、田中義一、犬養毅、中村是公、ずっと若くって広田弘毅、中野正剛などを友達扱いから子ども扱いにして来た連中のなれの果てかいなと、転た今昔の感に耐えなかった。
 この古芸者について面白い咄がある。明治の後年、後藤新平が満鉄の総裁だった時分、後藤以外の満鉄の中心人物中村是公と清野清太郎、それから犬塚信太郎、この犬塚は中村是公と共に偉かったらしい。この連中が大連に酒を呑みに出かけて行き、二時、三時まてバカを尽くす他に芸がないのか、座敷の畳を上げっこして夜中いたずらあそびをしたそうだ。
 その頃大連の埠頭人足の請負業者で、一万何千人もの人足を一手に動かしていた男に相生由太郎という者がおった。商号は福昌公司といったと思う。相生は光洋社の頭目株で、内田良平の兄弟格、労働者の扱いにしても当時としては進んだ考えを持ち、規模の大きい労働者の寄宿舎なんかを作って、なかなか頭のいいところを見せていた。・・・・・・
 この相生が大連で例の犬塚、中村、清野等の遊興仲間に合流した時、博多ほど遊んで面白いところはない。まず当今芸者の粋といったら博多でしょう、といってしきりに博多芸者を吹聴した。
 「そんなに面白いか」
 「面白いか、面白くないか、物はためしだ、一ぺんこっちに聘んでごらんなさい」
 「よし聘ぼう」
 そこで御使者が満鉄本社から博多に向けて立ち、おえん、おはまといった一流どころが国賓として招待されることになった。何でもその時の話によると満鉄の大官連が釜山の波止場に迎えに行き-おそらく幡のぼりを飾りたてた絢爛たる環境であったろう-湧崗子という温泉地、そのれからハルピンとひと月ほども歓迎して帰したということである。
 こういう華やかな過去を持つ女たちであるから、落ちぶれて袖に涙のかかる今の境遇は定めて辛かろう。不自由を喞っているだろうと思いの他、
 「さんざよか事をしたあとですばい。貧乏を苦になぞしておりませんと、それよりとクサ、松永さんがはるばると来んしゃったで生きているうちに顔が見られて、こげん嬉しいことはなかとタイ」
 それが決して自棄でもなく、負け惜しみでもなく、心から今の境涯に満足し、形骸こそ在りし日の面影は失せて、枯木寒巌もただならぬ老婆と変わり果てているが心慨は淡々、実にこの日、この時の余生を怡しんでいることを看取し、私は何か救われたような、そうして久しぶりに人間の魂を見出したようなほのぼのとした明るいおおらかな感興に長旅の疲れも忘れ、本当に心からの一夜の歓を尽くした。
 聞けばこの老いた女の侵入者たちは戦争以来、疎開などのため彼ら同志十年近くも音信を断っていたのだそうで、それが今度の私の訪博を機会に、知らせを得ていっしょに集まり、絶えて久しき対面に及んだという。だからお互いに一別以来の動静やら、疎開先の事情やら、それがどうして、これがどうしてとその喧しいこと。上がり湯でから桶を叩くが如し。
 しかし私はこの夜は一切、無抵抗を決め女たちの跳梁跋扈に身を任せた。女たちは一通り自分たちの身の上話や、相手の消息を聞き終わると、
 「まあ、松永さんタラ、どげんしょんしゃったな。久しうお目にかからんうちに、ああたも頭が白うなって齢ばよりなさったなあ」
 「何だ、自分が梅干しみたいに縮んでしまったくせに-。戦争ではお互いに苦労したなあ。金が要るなら旅さき故少ししかないが、上げるよ」
 「ぞうたん(冗談)は、いいなさっと。ああたにしたっちぁ、売り食いじぁ、ござっせんとな。金も要らん。何も要らん。この頃どの人に会うても、すっきりした人がのうて、なんか世間が狭うなった、小そうなったごと気がしてなりませんじぁもんな。それが今夜松永さんに会うて一ぺんにカラリと空が晴れたごと、スーッとよか気がしとりますタイ、日本にはまだ一人ぐらいはよか男が残っているもんじぁと、さっき姐さんともクサ咄しよりましたとタイ」
 私のことを言われた部分はお世辞ととってもいいが、聞く者の血を湧かすような、この女たちの慷慨談には嘘はない。彼らには求めるところがない。真率心に訴えるところを、そのまま流露しているからだ。この無法というか、天真らんまんというか、少しも作らないそして心底から旧知の遠来をホクホクとして喜ぶ心こそ、仏の涅槃に通ずる「まこと」である。終戦このかた私は絶えてこういう「直卒」「まこと」に接することがなかった。その意味でも、私は今度の九州旅行は大変幸せでしたと思っている。

 知己は多い、されど友は少ない。  ジョンソン


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私も、今は69歳、気持ちは若いつもりで、朝は布団から立ち上がるのが体がボキボキいう感じで、億劫、朝のジョギングも、幼稚園にお母さんとバスを待っている子供から「なんであんない遅いん?」とお母さんと話し声。老いは、日に日に体に押し寄せてくる。
 松永安左エ門(日本を代表する実業家、歴史家、茶人、登山家、随筆家、遊び人)の上の手記は、博多芸者の皆さんや、松永安左エ門のような老いがいいねと、楽しくなる。

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ちっとも困らないでやってこれた(2018/8/30)

2018-08-30 15:35:36 | どん底に落ちたとき
松永安左エ門著作集 3巻p396

今更大ホラと笑われるかもしれないが人間、何事も困ったと思うから困るんで、困ることができても困ったと思わなきゃ困りゃせん。横着でもわがままでも無神経でも、困ったことなんかはそう思わんで、より大きく構えて踏みつぶせばいい。ぼくはいろいろ事業にも失敗してきた。破産同様の行き詰まりに当面したことも3度ある。人をなぐろうとしたことも人からなぐられようとしたこともある。普通に考えれば困った困ったの連続であった。しかしぼくは天下国家のために大きく困ったと感じたことはあっても、自分自身のために小さくケチくさく、困ったと思うことは一度だってありゃしない。・・・・・そのへんを僕は一切恐れず、疑わず、怨まず、怠らずで押し通してきた。それで結構ちっとも困らないでやってこれた。

(こうした生き方を貫いている人、結構おられる。一言二言、言葉を交わすだけで、すがすがしい気持ちになる。takeda)
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ヒルティ「眠られぬ夜のために(11/9日) (2018/8/23)

2018-08-23 11:48:14 | どん底に落ちたとき
ヒルティ「眠られぬ夜のために(11/9日)」

 幸運にも中流階級に生まれた人たちは、人生においてつぎの二つのことをほとんど知ることが出来ない。それは、手段や助けを仰ぐために、「よその階段をのぼらねばならないことがいかに辛いか」ということと、いわゆる上品な生活というものがいかにわずかの満足しかあたえないかということである。下層階級の人たちは、第一のことはよく知っているし、第二の上品な生活のほうは、あたまから念頭に置いていない。したがって、このような階級には、そのあらわれかたこそいくらは粗野ではあるが、かえって上層階級よりも、克己力に富んだ高貴な人間が多い。上層階級は、上品だとか洗練されているとかいっても、しばしば酷薄なエゴイズムのたくみに磨かれた殻にすぎないことが多い。最上流の社交界にも、ときとしていわゆる「上流生活(ハイ・ライフ)」全体の空しさをよく見抜いている人たちがないわけではないが、どうしもそれから抜け出すことが出来ないのである。

(T社を不意のリストラで14年前辞めたとき、一番変わったのは、遊び仲間。T社の頭の良い社員の皆さんほぼ全員周りから去り、ラーメン屋の親父さん、左官屋さん、大工さん、木工職人、絵描といった自営の皆さんと日頃遊んでいる。日頃の行状は、不良爺さんだが、弱いものいじめしない、良いことをしても知らないふり、等、高貴な人柄が内に秘められていると実感。takeda)
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ベンジャミン・フランクリンの13徳(フランクリン自伝)(2018/8/12)

2018-08-12 14:16:51 | 明日が不安な時
○ベンジャミン・フランクリンの13徳(フランクリン自伝 中央公論新社 p190~)

①節制 頭が鈍くなるほど食べないこと。酔って浮かれ出すほど飲まないこと。

②沈黙 他人または自分自身の利益にならないことはしゃべらないこと。つまらぬ話は避けること。

③規律 自分の持ち物はすべて置くべき場所を決めておくこと。自分の仕事はそれぞれ時間を決めてやること。

④決断 やるべきことを実行する決心をすること。決心したことは必ず実行すること。

⑤節約 他人または自分のためにならないことに金を使わないこと。すなわち、むだな金は使わないこと。

⑥勤勉 時間を無駄にしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること。

⑦誠実 策略をもちいて人を傷つけないこと。悪意をもたず、公正な判断を下すこと。発言する際も同様。

⑧正義 他人の利益をそこなったり、あたえるべきものを与えないで、他人に損害を及ぼさないこと。

⑨中庸 両極端を避けること。激怒するに値する侮辱をたとえ受けたにせよ、一歩その手前でこらえて激怒は抑えること。

⑩清潔 身体、衣服、住居の不潔を黙認しないこと。

⑪平静 小さいこと、つまり、日常茶飯事や避けがたい出来事で心を乱さないこと。

⑫純潔 性の営みは健康、または子孫のためにのみこれを行って、決してそれにふけって頭の働きを鈍らせたり、身体を衰弱させたり、自分自身、または他人の平和な生活や信用をそこわないこと。

⑬謙譲 キリストとソクラテスにみならうこと。

(18世紀、アメリカ合衆国建国の父として尊敬されているベンジャミンフランクリンが25歳の時、立派な人になる・徳のある人になるには、この13徳が身につけばよいと、手帳に書き留めたもの。フランクリ自伝で紹介され、日本でも明治の頃から繰り返し紹介されてきたもの。私も中学3年の時クラス担任の先生がガリ版刷りで一項目づつ説明してくれたのをよく覚えている。徳目③規律~物は所を定めておくべし~は今もどこに直したのか分からないと困った時、「物は所を定めておくべし」と、よく独り言⑦誠実は、これに違反してエライ目に会って以来特に肝に銘じている徳目。takeda)

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任小卿(じんしょうけい)に報ずるの書(司馬遷 史記)(2018/8/4)

2018-08-04 18:23:36 | どん底に落ちたとき
任小卿(じんしょうけい)に報ずるの書(司馬遷 史記 平凡社 上p485)

私は怯懦(きょうだ)で、かりそめにも生きていたいとは思いますが、それでも出処進退の分は存じております。どうして、ただ牢獄につながれる辱めの中に沈溺したりいたしましょうか。いったい、下男下女のような賎しい者でも、自決はいたします。まして、追いつめられたわたくしが自決できない筈はありません。それを隠忍して生きながらえ、糞土の中に閉じ込められているような現下の状況に耐えておりますのは、心中に誓ったことを完成しないのが残念であり、このまま死んだのでは、わが文章が後世に現れないのを惜しむからであります。

(紀元前99年に司馬遷が匈奴の捕虜になった将軍の李陵を弁護したため、皇帝の逆鱗に触れ、投獄され宮刑に処せられ、3年後出獄、5年後の紀元前91年に史記を完成させた年に司馬遷によって書かれた手紙。司馬遷と同じ境遇になった、漢の役人の任小卿に宛てた手紙で、司馬遷の心情が偲ばれる。またこうした人材を世に出した中国の底力にも敬服。Takeda)


任小卿については、司馬遷の史記に詳しい(平凡社訳本 下巻p108~)
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内村鑑三 一日一生 7/9日(2018/7/28)

2018-07-28 22:15:44 | どん底に落ちたとき
内村鑑三 一日一生 7/9日

試練を耐え忍ぶ人は、幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブ書1-12)

栄光は恥辱の後に来る。人に嘲られ(あざけられ)、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視するところとなりて、しかる後に吾人に栄光は来るなり。しかり、恥辱は栄光の先駆なり、開拓者なり。春の夏に先だつごとく、月欠けて後にその満つるがごとく、恥にあうて吾人に栄光の冠をいただくの希望あり。吾人は喜んで人の辱めを受くべきなり。

(T社を15年前リストラ通告され、1年後、本当にリストラされでこの間の1年間は、世間体が悪い、破門された、手のひらを返すような元同僚・後輩の嘲笑、罵倒、等々腰をかがめて進むような、しんどい毎日。当時も内村のこの個所を読んだが、それほど印象には残らなかった。いのちの冠を実感できなかったから。15年後の今は、最後まで裏切らない友達に囲まれて、ピールを酌み交わしながら、釣りだ畑だ山登りの愉快な毎日。「喜んで人の辱めを受くべきなり」、の指摘そのとおりだと胸に響く。takeda)
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52年前の連用日記の勧め(2018/7/21)

2018-07-21 17:42:09 | 老いて病んで貧乏したとき
愛媛新聞 1966年12月24日 朝刊 家庭婦人欄より

本屋さんや文房具屋さんの店先に、さまざまな新年の日記が勢ぞろいしています。日記といえば、すぐ、「三日坊主」ということばが思い出されるくらいで、長期間にわたってつけ続けるのは、なかなか難しいことです。
 その日記を36年間ずっと書き続け、いまは、「日記の楽しみ」を味わっている境地という、歌舞伎俳優の中村芝鶴(しかく)さん(66歳)に、体験的日記論、日記のつけ方のコツ、楽しみなどを披露してもらいました。中村芝鶴さんは、東京の国立劇場で公演の「菅原伝授手習鑑」に出演中でしたが、以下はそのあいま、楽屋でのお話です。

 日記のすすめ 中村芝鶴

 「5年連用の日記」で

 私がつけているのは、「5年連用日記」という、少し変わった日記帳ですから、私のお話がそのままみなさんのお役にたちますかどうか・・・。私が初めて日記帳を買ったのはいまから36年前です。そのころ舶来品を買うのが好きで「丸善」によく行ったものです。そこで金色、赤色などですごくきれいな5年連用日記をみつけました。一日分は、わずか4行くらいですが、同じページに、毎年の同月同日を書き込めるので、昨年のきょうは何をやっていたかなんて、とても楽しいものです。型が小さく、たいていはカギがかかるようになっていますから、旅行のときでも持ち歩きできて便利です。初めは非常に高いと思いましたが、きれいだし、5年間使うとなれば安いと思いましてね。現在使っているのは8冊目です。
 日記帳には、その日に起こったことで、とくに印象の強いものだけを書きます。私は仕事のことのほか、相撲など好きなスポーツ、買い物、食べ物のことなども記入しています。書いてもムダと思うものは書かないようにするのが一つのコツですよ。
 たとえば天気、温度などおきまりのものは、書くときに思い出したり調べたりすることが面倒ですが、こういうちょっとしたことでも、書く気に水をかけたりするものです。私は、ほんとうに「いい天気だ」と思った日だけ「快晴」と書きます。また「台風○号で夜眠れず」といったぐあいですね。そうそう、これといったことのない平凡な日には「平凡」とだけ。たくさん書きたい日には、その「平凡」のページをうまく利用することにしています。それから自分の近くに起きた重要な事件については「いつ、どこで、だれが、どうして、どうなった」をはっきり書いておくこと。30年もたつと、いつのまにか、どんな事件だったか忘れてしまっていますからね。

「つけないと眠れぬ」 
日記を4、5日つけただけで、その楽しみをつかめる人はあまりいないでしょう。人によっては半年も一年もかかるようですが、とにかく「必ず書き続ける」という決心が肝心。そして書き始めたら、今度こそは「習慣づける」ことです。私は夜、食事が済んでから日記帳を開く習慣にしています。興味を持てるようになるまではたいへん苦痛ですが、そのうちに、日記をつけないと眠れないくらいになりますよ。日記が書けない事情の日には、私は別のメモ帳に簡単に書いておくことにしています。前のヨーロッパ旅行(ことし5月末から約一ヶ月)の時も、荷物を軽くする関係で、日記帳代わりにメモ帳をもって行きました。
 もう一つ、日記を長続きさせるコツは、文章や体裁をあまり気にしないこでしょう。
 私は、義父5代目伝九郎の伝記を書いた「大文字章」、最近出版した「役者の世界」など、何冊かの本にしていますので、日記を出版したらといってくれる人もありますが、記録本位を体裁にかまわずですからね、どうしても発表する気にはなれませんよ(笑い)。

「人生経験の実感わく」
 日記をつける楽しみは、年を経るほど大きくなってくるようです。30年も前のはインクの色が変わっていますが、「ああ、こんなこともあったのか」といろいろ思い出させてくれ、実に楽しいものです。それに、日記は知人の慶弔やなにかの事件を調べたりするのに便利で、随筆を書くときなどにも役立ちます。
 日記を読み返してみると、自分が次第に「幸福」になっているのを感じますね。つまり、夜と昼が交互にやってくるように、人生も悲しみのあとに喜びがやってくるさまがよく分かります。そして、人間はいろいろのことを経験することで、段々豊かになっていくのだ、という実感もわいてきます。
 また、自分がいい仕事をやった、とかいうときは、その前後の自分の気持ちは必ず充実して、「はずんで」います。私はそういう時期を、ほんとうに「生きている」ときだと思いますが、たとえ「平凡」な日でも、次のことのために力をたくわえているのだと自覚して生活すれば、その期間もまた「生きている」ことになるのですね・・・。日記からはそんなことも教えられます。

(私がこの新聞記事を読んだのは52年前の年の暮れ、17歳四国今治の高校2年生。これはいいと、その日から大学ノートに日付を書いて、6年連用日記を書き始めた。以来52年、69歳の今も日記を書いている。文章を書く訓練になったし、お金の掛からない、楽しいレジャー。体験した出来事を思い返すにも役立つ。冒頭の写真は52年前の新聞記事)
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破門・破産(2018/7/14)

2018-07-14 17:12:46 | どん底に落ちたとき
永安左エ門全集 第3 月報 より

 終戦の混乱時、奥村綱雄が45、6の若さで野村證券の社長に就任、得意満面の表情で松永に報告した。すると松永は「人間、その一生涯で病気、失恋、駆け落ち、勘当、落第、破門、破産等等、失敗を一つでも多く重ねた人間でなければ本当の成功は出来ない。君はいま程度の成功を鼻にかけている様では、前途遼遠だ」と言い切った。

(14年前、T社リストラを言い渡された当時、「破門された」が実感。しかし、この失敗は本当の成功への第一歩だとの、この一節は、勇気を与えてくれた。以来6年、「釣りだ畑だ山登り」と毎日充実した日々で、これで目出度し、目出度しと思っていたら、7年前から次男が会社を4か月で辞めて、我が家に出戻り。親子で失敗を重ねることと、なった。それが峠を越えると、また次のウソー、また次のウソーで窮地に陥りで、なるようになるさの気分。takeda)
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ありがたいことじゃ(2018/7/3)

2018-07-03 15:14:26 | 明日が不安な時
松永安左エ門著作集 第5 p206 より

 夢窓国師は「地獄におちる心配をし、苦労しているのが、既に今の今、地獄に落ちているのじゃ」といった。

先のことはさきのこと、明日のことは明日が解決する。なんと言っても人間は今日一日だけよく暮らせばよい。あり難いことじゃと思って一日一日を十分に生きることが正しい生きたかである。

「日々是好日」とか「無事是貴人」とかいう一行書きの大徳寺物が茶掛になる理由はここにある。

(ありがたいことじゃ、と思って一日一日を十分に生きることが正しい生きたかである。自分の健康、家族の自立、明日のことを考えると、心配だらけ。先のことは先のこと、一日一日を十分に生きることが正解よ、と聞くと、肩の力が抜けて、うれしくなる。先日テレビで、細胞分裂を司る細胞があり、ストレスが掛かりすぎると、その細胞が効かなくなり、その対策に、3分間、目を閉じて、自分の呼吸の音に意識して耳を澄ませると、その細胞が活性化し、細胞分裂が正常になり、老化が防げるとの報告が。ストレスは、先のまだ起こっていないことをあれこれ、心配することが一番のストレスで、呼吸に耳をすませることで、意識が今現在に向くのが、ストレスを除くとのこと。松永安左エ門の「日々是好日」の述懐に通じるもの。takeda)
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「尻つぼみ」も爽快なる男子の最後の飾り(2018/6/27)

2018-06-27 16:40:21 | 老いて病んで貧乏したとき
松永安左エ門著作集 3巻 p126 より

 私のところの若い者に
「俺は先年梁瀬(川越在)の別荘を寄付したために大変金持ちになったよ」
と述懐したところ、その若者が目を丸くし、
「あの梁瀬の大邸宅を国宝級の美術品を付けて本当の無償で寄付してしまって、それであなたが大変な金儲けをしたといわれるのはどういう訳ですか?」と問うから、
「あんなべら棒に大きいものを持っていて見たまえ、女中、下男、掃除夫までもウンとおかなければならず、しょっちゅう手当て手入れは怠ることは出来ないし、第一どの位の税金がとられるか、ちょっと算盤ははじけないよ」
 この答えは若者にはわかったようであり、わからなかったようでもあったが、私はいま小田原の山懐にほんのじいさん、婆さん二人に女中一人の簡素な暮らしを送り尻つぼみ生活を楽しんでいる。・・・・・

 もう一つ私の義弟に当たる者で、若い時朝鮮に渡り、当時の金で資金5億円に上る大地主になった男がある。ところが敗戦で全部没収され、零丁落魄私のところへ転げ込んだ。
 私はいってやったのである。「お前は年をとったら楽をしようと思って、朝鮮で働き、金をため、土地を手に入れ、大富豪になった。つまり末広がりの常道を狙って一応は成功したのである。しかし戦争で無一物となり、これからどうしようというのであるなら、いい事をおしえてやる。俺の実弟が郷里壱岐の村長をしているからそこへ尋ねて行き、村役場の小使いにしてもらえ、お前ももう70歳を超えた老齢であるから、村役場の小使いで食っていけるだろう。それでも生活が出来ないというならお前がこれまで立派にしてやった旦那寺の庭掃き坊主になれ、それが出来ないか」
 義弟はとにかく壱岐へ引き揚げて行ったが、村役場の小使いになつたことも旦那寺の庭掃き坊主になったことも、私にはまだ通知はない。

 しかし私は、尻つぼみ生活は決して敗北思想ではないと考える。いまの世間の常識に反しているかもしれないが、一番人間の理合にあった生活の行く道ではないかと思うのである。人間の真の姿とは虚飾を着けない、真っ裸そのままの男一匹で暮らしていける無心の生活だ。名誉、富貴それも良い。なければなけれでいい。青春の愉悦もいい。老いて、病んで、貧乏したとする、これも止むを得ない自然だ。悔やむ代わりむしろ楽しむ気になれぬものだろうか。日日是好日「尻つぼみ」も爽快なる男子の最後の飾りと思うのは無理か。

(この義弟は、熊本利平という方。「日々是好日「尻つぼみ」も爽快なる男子の最後の飾り」と腹を括った覚悟、こうした覚悟で楽しんで暮らしている方は、気を付けていると結構出会える。「年よりもこうして生きているとみせてあげようと思って皆さんとの会合に出るよ」(3年前94歳で亡くなった、江藤正翁)、「金はなくなったが生きているのはこの世だけのこと」(赤字の衣料品店のオーナー)等。また孔子が最も認めた弟子、顔回の裏町での貧乏暮らしの姿勢が貧乏暮らしを楽しむ姿勢と松永安左エ門は、紹介している。「老いて、病んで、貧乏したとする。これも止むを得ない自然だ。」69歳に私もなり、あと一回り生きれるかなと思うようになると、時々口ずさむことが増えた。柳瀬の大邸宅は今も健在(2011/4撮影)。冒頭の写真。松永安左エ門が戦後、奥さんと暮らした小田原の住まい、下に。2010/3撮影

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