僕が住宅建築に携わって、早20年が過ぎてしまいました。
若い頃には天狗にもなった事も有るし、挫折も味わったことも多数。
ある程度専門性の必要な部署について、経験もつませてもらって、そろそろ弛んだ腹に見合うだけの円熟味を醸しださなきゃならん頃だよなぁ、なんて思う年頃でも有ります。
歳を重ねるごとに、兎に角(ココ強調)、時間の経つのが早くて軽いんだ。
小6の子の一日重みは、まもなく11年ぶり4度目ゾロ目オヤジのそれに比べると実に3.6倍( ・`д・´)
∵)44÷12≒3.6
で、あってるよね^^;
どんどん加速しやがる。。。。。。
そして、どんどん軽くなりやがる。。。。。。。
あっという間の20年では有りましたが、ココ一年は(誰もが同じ意見の方も多いと思いますが)経験したことの無い一年となりました。
19年目の3月16日に招集された国土交通省から要請された会議に出席した事で、僕の勤続20年目が大きく変わってしまいました。
業務内容は応急仮設住宅の建設。
直接現地で建設に携わるセクションではなかったものの、昼夜を問わない業務の数々。
「一日も早く、一人でも多く」。
何度、口にしたことだろう。
その度に、自分に鞭入れて鼓舞したものです。
資材が足りない事、人手が足りない事、建設用地決定の遅れ、運搬手段がない事、性能に関する事、物理的規模に関する事、入居者心理的ケアの必要性について、人類がコントロール出来無い飛散物について…。
数々の報道の大半が困難に面する事ばかり。
逆にほとんど報道される事がなかったことの一つに現場職方の頑張りが有ります。
体を張った仕事であるのに、当初は食事の手配もままならず、寝泊まりする場所から被災地(現場)までの移動時間が片道2時間超だったり、超超短工期で引き渡さなくてはならなかったり…と、劣悪な環境下、見事オーダーに応えてくれました。
源流近くでの苦労とは違った種類の河口付近での苦労・超苦労、スポットが当たることは有りませんでしたが、このプロジェクト参加させてもらった者として感謝しても感謝しきれません。
色々な困難に立ち向かいながら、通常業務とのバランスも取らなきゃならない。
一番のジレンマは、応急仮設住宅建設に全くタッチしていない社内部署との温度差だったり…。
この辺りのジレンマは僕だけではなく、同業他社の僕と同じポジションの方としか共有できない事だったりします。
先月末、一定の役割を終えた宮城県の同業他社20数社からなる応急仮設住宅建設事務所の閉会会議へ出席させていただきました。
1社づつ挨拶・スピーチに立つのだが、酒が進んできても誰一人として壇上の言葉を聞き漏らす者がなかったように思います。
熱い暑い厚い篤いスピーチ。
いっぱい笑った。いっぱい泣いた。
同じ釜の飯を食うって事を久しぶりに感じたそんな夜になりました。
閉会後、一人反省会をホテル近くのバーでやっていた時のこと、店主から声をかけられました。
「お客さん、引き上げるんですか?早く戻ってきて、解体してやってくださいよ。それが何よりですからね。」(東北訛りで)
地図に残らない仕事。
いや、地図に残さなくていい仕事。
まだ、僕の仕事は終わらない。と、強く心に刻みつけました。
多くの犠牲者・行方不明の方々のご冥福を祈ると同時に、未だ避難を強いられている30万人以上の人々の早期復興をお祈りしております。
僕が建築に携わったのは今回のプロジェクトに参加させてもらうためだったのかもしれません。
21年目を迎えて、心新たに自分に与えられた使命に邁進していきます。
0.000km(自転車入院ちう)
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