僕のつぶやき

服や音楽が好きな、現代の夢見るフリーターsanboさんがお送りする戯言やイラストなどなどです。

思い出

2005年02月22日 21時24分50秒 | つぶやき

 ふと、何気ないことで昔のことを思い出すことはありませんか?

 昨日、押入れの大掃除をしました。中には昔、遊んだおもちゃとかがたくさんありました。今の家に引っ越してから、8年くらいたちますがはじめてこんなに大掃除をしました。懐かしいと思う反面、何でこんなものをとっておいたのだろうかと思うこともあります。でも、その当時の自分にとってはそれが大切なものだったのだろうと。

 時間が経つと、人の価値観なんて変わってしまうものですね。小さいころは、大人っていうのは大きな存在で、なんでも見上げてた気がしていたけど、自分が大人になると思ったのとは違うなと違和感を感じている。出来ない事だってたくさんあるし、見上げる事だってたくさんある。不安になることもあるし、考えることもたくさんある。昔はこんなところでつまずくことはなかったとか、そういうことも多い。

 20年後、僕は40歳になる。きっとそれなりの家族がいて、働きながらあくせく生きているんだと思う。でも、今の僕とどう変わるかなんて、これっぽっちもわからない。きっと何にも変わらないで、時間だけが過ぎていく。その中で、挫折したり、後悔したりすることもあるだろうし、笑ったり、幸せと感じることもできると思う。そのころの自分は、今の僕をどう思うのだろうか。

 思い出は自分の記憶の中で少しずつゆがめられていく。自分の望んだように変わっていって、必要のないものは次第に消えていく。あなたの中での僕という存在も、あなたが必要としなければ消えていくことでしょう。そうやって今まで過ごしてきただろうし、これからも同じことが続いていく。僕は今までたくさんの人に出会ってきた。いい人もいたし、泣き虫の人もいた、調子のいい人も、意地悪な人も、元気な人も、おしゃべりな人も…その中で、今の僕の中に残っている人は、どれだけいるんでしょうか。ほんのわずかでしょう。でも消えていくのは自然の摂理で、悲しいなんて感じたことは一度もない…なんて、僕は言えません。忘れたくないことはたくさんあるのに、どんどん消えていってしまう。

 僕の初恋はきっと、保育園のときの担当の先生だったと思います。先生宛に手紙を書いて、その返事が来るととてもうれしかった思い出があります。でも、その顔も声も態度も、名前すら覚えていません。きっとその時は、胸躍らせるほどの気持ちだっただろうに。

 あなたはなくしたくない思い出とかありますか?忘れたくない人はいますか?

 それが多いからいいとか、少ないから悪いってことはないと思う。そう思える人がいることが、きっと今の自分を支えていてくれるんだと思う。きっとどこかで自分のことを忘れたくないと思ってくれる人がいるはず。そんな人たちの支えになって、僕も支えられている。実際に話をするとか、そういうことじゃなくて、心のどこかで繋がっているという感覚。人を大切だと思える気持ちをずっと大切にしたいと思う。そう、それは10年たっても、今の大切な人を忘れたくないということ。


倫理クイズ

2005年02月19日 16時10分38秒 | つぶやき

 さて、今日はひさびさに頭を動かして考えてもらいたいと思います。頭の体操です。ちょっと意地悪な問題ですが、努力してみてください。答えが出たら、おめでとう!!という程度ですけど…

 早速、クイズです。あるところに三匹の生き物がいました。
①あるとき山羊は言った「嘘がいつまでも見抜けないとき 嘘をついているのはわたしです」
②次に獅子はいた「山羊が嘘を言っているなら 次に竜も嘘を言っている」
③最後に竜が言った「もしわたしの嘘を見抜いているものがいたらそれは正しい」

 この中で嘘をついているのは誰でしょうか。


…と、いう問題です。エピメニデスという倫理学者が考えた、嘘つきパラドックスという問題です。どうですか?わかりますか?紙に言っていることなどを図式して、矢印などを書いてがんばってみてください。答えが分かった人は、コメントやメールなどで送ってください。待ってます!!

 たまにはこういうのもいいかなぁ、と思いました。


携帯電話とのかかわり

2005年02月17日 12時06分46秒 | つぶやき

 昨日、雪が降る中で携帯をなくした友達がいます。なくしたことに気づいて、電話をして探そうとしていましたが、しばらくして電話は通じなくなってしまいました。雪の水分や温度でだめになってしまったのか、誰かが拾ったのか理由は定かではありませんが、けっきょくその携帯は見つけることはできなかったようです。

 あなたと携帯電話はどのようなかかわりでしょうか。

 なくても大丈夫?あれば便利?なくちゃ生きていけない?あってもなくてもいい?人によって感じ方はまちまちで、その扱いも違うと思います。携帯を投げたり、プリクラやシールを貼り付けたり、落書きしたり、丁寧に扱ったり… やっぱり価値観は違うから。

 僕はきっと携帯がないとやっていけないですね。今は。携帯をもつようになったのは高校一年の冬のときでした。それまでは携帯なんていらないよ、なんて友達には強がっていましたが、心底はほしいと思っていました。でも、親がダメみたいな感じだったのでどうしようもなかったんです。でも、その年のクリスマスに、その当時最新で、以後もしばらく大人気の機種であったN502iTをかってもらいました。それから、メールを中心に友達とかと連絡を取るようになり、いろんなことがありました。
 自分の場合は、直接言うよりも電話、電話よりもメールという具合に話しやすい環境になっています。メールと普通に話すときの口調とかかなり違うと自分でも感じるくらいです。ここまでくるとなぜか電子二面のような感じですね。でも、それでどうってことはないし、そういう人も自分の周りにもたくさんいると思うから。直接だと言い出せないことでも、メールだとすんなりいえてしまうみたいなことも多々あると思う。だから、僕は携帯がないとやっていけないと思うわけです。

 一時期問題になった若者の携帯依存症。僕はまんまとそれですよ。携帯なくした友達は、なくなってもなんだか普通にしてましたし、自分だったらかなり焦って探し回ると思います。とくに雪のなかなくなったら、メモリとか飛んじゃって、もう連絡取れない人もいるかもしれないから。番号が新しくなるとか、端末買うのにお金がかかるとか、そんなことは妥協して受け入れられるとしても、その消えたメモリはもう帰ってこないんです。東京とか神奈川とか北海道とか、いろんなとこにいっちゃった友達もいるし、ふだんはあわないけどメールとかで安否を確認している人もいるし、そういった人たちが急にいなくなっちゃうわけですから、それは耐えられないですよ。ふだん会える人なら、また聞き直せばいいけど、アポすら取れない状況になればどうしようもないですね。

 恐いですね。情報化社会。僕は現代っ子の鏡みたいですね(笑)


恐い話。

2005年02月16日 20時40分34秒 | つぶやき
 おばけとかは出てきません。そういう恐い話ではありません。でも、ある意味、自分にとってはそんなものよりももっと恐い話。

 まぁ自分にとっては恐いけれど、人によっては「意味わかんねぇよ」って人もいると思うけれど、話をしていきたいと思います。実はこの世界は、誰かによって創られたものであるということ。その創った人は、神とかそういう神聖視されるものではなくて、ありきたりのものなんです。僕たちはそのもの(人ではないと思うので…)によって創られて、その行き着く先や生きている姿を楽しまれているんです。

 そう考えるだけでも恐くないですか?

 自分で決める、とか言うけれどそんな考えや感情なんかもそのものによって作り上げられ、決められたものであるということです。自分で生きているようなことでも、なにかが決めたレールの上を歩いている人形でしかない。そう、考えている僕も、そう考えるようにプログロムされた存在でしかない。どれだけ頑張るといっても、どう頑張るかも、頑張ろうと思うことも、すべて決められていることで、そのことにさえ気づかずに生きているわけです。

 僕らは自由と感じるように仕組まれているわけです。

 そのものによって、箱庭のようなところで僕たちの生きる地球ごとおもちゃのように使われているわけです。そう考えると、頑張ろうとも思わなくなるし、悪いことがあっても意外と受け入れやすくなるんじゃないかと思う。でも、実際はそう考えることすら決められているわけですよ。悩むことも笑うことも、何もかも誰かのプログラムによって作られている。それに流されることも、反発しようとすることもすべてプログラムによって決められる。僕たちは意思を持っているかのようにつくられた人形なんだ。

 そんなことを考えると、夜寝るのも少し遅くなりそうですね。僕という存在は、コンピュータプログラムのように0と1という二つの電気信号によって作られているんです。そして、その箱庭を見下ろしてそのものは何を考えているんでしょうか。
「あぁー。今回、失敗したよ。リセットしよ」
 そうなったら僕たちのいる世界は一瞬でなくなってしまうんです。僕たちは生きたという証すらなくなってしまうんです。地球ができた64億年も前からきっと遊ばれているんですよ。

 恐いですね。恐いですね。


P.S.
 やっぱりみんな「死」とかのテーマについては意見をもっているようですね。ウェゲナーとかそういう話題のときは、コメント少ないんですよね。意外と気合入れてやっていたりするんですけど。今回のやつもきっとコメント少ないんですよね。そんなに難しく考えなくていいんで、感想とか希望とかどんどんコメントください。コメント見ると、これからも頑張ろうと思えるので。


自分を曲げないこと

2005年02月14日 10時08分40秒 | つぶやき

 あなたは「アルフレッド・ウェゲナー」という人を知っていますか?きっとどんな人も中学校か高校かで一度はその名前を聞いたことがあるはずです。ただ、学校の勉強ではたくさんの自分物が登場するのでその中の一人ということで、すぐに忘れてしまっていることでしょう。

 この人物、僕が中学校のときにとてもRespectしていた人物です。図書館でこの人の履歴を調べたり、高校入試の尊敬する人は?と聞かれたときに答えようとしたのもこの人でした。そのくらいその当時の僕の中では大きな存在だったわけです。

 そろろそ思い出していただけたでしょうか?ウェゲナーという人が何をした人か。

 ウェゲナーが提唱したものは「大陸移動説」で、現在のプレートテクトニクスの前掛りになったものです。今、分離している大陸はもともとは一つの大陸(パンゲア)であるということです。気が遠くなるくらいの時間をかけて、大陸は分かれて、現在の形になりました。今では、この考え方も当たり前になって、教科書に載り、100%の学生が一度は目を通すことになるでしょう。

 しかし、ウェゲナーがその大陸移動説をはじめて提唱したときにはそうではなかったのです。当時はまだまだ科学の考え方よりも、宗教的な側面が強く、この地球も宇宙も神が創り与えたものとされて、古代からそうであったと言われる時代です。ダーウィンの進化論も同様でした。もし、そういったことを考えた人たちが周りの考えに押さえ込まれて、研究が白紙にされていたら、科学の進歩は遅れていたことでしょう。何年か、何十年か、もしくは何百年変わっていたかもしれません。

 神をも覆す論は、すぐに受け入れられるわけもなく、宗教徒の人から迫害を受けてしまったかもしれません。それでもウェゲナーは研究を続けました。その心中はわかりません。後世の科学、人類のためだったのか、否定されてその見返しなのか、今になったら聞くことはできず、真偽を確かめることはできませんけど。それでも、彼はなんども北極から気球を飛ばし、その大陸移動説を証明しようとしました。そして、3度目の渡航で殉職しました。
 それから時間が経って、大陸移動説はさらに発展させられ、プレートテクトニクスとして現在に至っているわけです。ウェゲナーが命を賭してまで、証明しようとしたものがやっと成就したわけですがそれを本人が見ることはなかったのです。科学の世界では、そういうことも少なくありません。エジソンだって、ここまで世界が電気文明になるとは思ってもいなかったでしょう、多くの科学者たちは自分の考えたものが、発展され、今の現状をみたらどう思うのでしょうか。自分の持論があっていたと喜ぶ人もいるでしょう、でも、世界は変わってしまったと嘆く人もいることでしょう。

 自分を信じて、自分を曲げないことがときに世界を変える力に変わるということです。ただし、普通の生活で自分を曲げずに、貫き続けることはできるでしょうか。それは人間関係などを壊してしまうこともあるわけです。そんなことを考えてる時点で、僕には科学者としての未来はないでしょう…ね。あなたはどうですか?? 中学校のころの僕はきっと自分を曲げないことを美学とし、輝く未来をウェゲナーやダーウィンなどといった成功した一握りの科学者に重ねていたんでしょうね。たくさんの科学者の中には、間違ったことを曲げずに消えていった人を知らずにいたんです。

 さて、これから世界はどう変貌していくんでしょうか。それを今知るにはタイムマシンが必要ですかね(笑)


哲学クイズの疑問

2005年02月13日 15時00分58秒 | つぶやき

 結構前に僕は哲学クイズというものに興味をもち、本屋に行ってはよく立ち読みをしていました。(そこまで興味があるなら買ってしまえばいいのだけれど、そういう専門書は高くて、文庫本仕様でも1500円くらいするんです)しかし、本屋の片隅なので座り込むわけにもいかず、ぶつくさ言うわけにもいかず、ただ黙って眺めているだけなんですけど。もっとよく考えれば分かるようなことでも、疲労と周りへの心配で考えて躓くとすぐに答えを見てしまっていました。

 そんなある日、僕は一つのクイズに出くわしました。それはいつも読んでいる本の真ん中あたりにありました。これもまた少し考えて、自分なりの答えを出して、答えを見ました。しかし、その答えはあまりにも疑問を残すものだったのです。
 では、その問題を出したいと思います。ただ、詳しい言い回しなどは覚えていないので、自分なりに設定などを変えてやりたいと思う。でも、答えは変わりません。

 Aくんは進路について迷っていました。P高校に行くか、Q高校にいくか。そこで露天の占いでその進路を占おうとしたわけです。B占いは3000円で、当たる確立は30%。C占いは7000円もするけれど、当たる確立は70%。Aくんが一番効率のいい方法で進路を決められるのはどちらの占いを選んだときでしょうか。何度占ってもいいです。

 というもの。あなたはどう思いますか?よく考えて見てください。理由も考えておいてくださいね。ただの二択、勘で答えてしまったら意味はないのだから。そもそも進路を占いで決めようとするのもどうかと思いますけど…そういう設定はあまり深追いしないでください。

 わかりましたか?ちなみに本にあった正解は「B占い」でした。B占いで一回占ってもらう、というのか答え。どうです?あってましたか? それではその本の解説を述べます。「B占いで占って、どちらかの高校を言い当てられる。その逆をいけば、3000円で70%の結果をえられるわけです。だからこれが効率がいいと言える」というもの。納得していただけましたか??まぁ確かに。と思う人も多いことでしょう。

 しかし、僕はこれを読んで大きな疑問を持ちました。二択で30%の逆をいけば70%になる??どう考えてもおかしい。そうでしょう?Aくんは進路の選択で、B高校とC高校を占いで占ったわけですよ。強いて言えば、その占いはP高校(P集団)とQ高校(Q集団)を選ぶものであるわけです。普通に占えば、どちらかの高校にいけばいいという確立が試算されます。しかし、B占いで出た結果の逆をいくということで、もう一方の答えが70%になるかと言えば、そうとは言い切れません。
 例えば、B占いでP高校へいけばいいという結果が出たとします。それは確立としては30%。ということで本の解説のように逆のQ高校に行けば70%の確立でよいとされる。これはおかしい。B占いでは、P高校が30%である、としか言っていないわけである。とういことは残りの70%には確かにQ高校に行けばいいという確立も含まれているが、そのほかの可能性も含まれているということになる。つまり、B占いの結果からわかるのは、P高校にいかない方がいいというのが70%であって、それはQ高校にいくということとイコールにはならないのだ。

 残りの70%には、Q高校のほかにもX高校やZ高校、T専門学校だってあるかもしれないし、就職という方法もあるわけだ。どうだろうか。そう考えると、本の解説のようにB占いで占ってもらい、その結果の逆を利用するというのは間違ってはいないが、その中でQ高校の占める割合まではわからないわけだ。ということはそんな未知数なことを判断するのに、3000円も払うのが効率のよい方法と言えるのだろうか。僕はそんな疑問をもったわけである。

 別にあの本を否定するわけでもないし、そう考える人がいてもいいと思う。ただ、僕の言うような可能性も十分にありうるという話である。あなたはどう考えてもらっただろうか。コメント待ってます。


☆おしらせ☆

2005年02月11日 21時48分25秒 | つぶやき

 …ブログの名前が少し変わりました。お気づきでしょうか。

 さっき検索したら「俺の独り言」というのはまったく同じ名前のブログがあったので、しかたなく変更させていただきました。向こうのがさきだったので・・・ どうせなら登録のときにかぶってることを教えてほしかったです。。。

 新しい名前は・・・
僕のつぶやき
 ということになりましたので、宜しくお願いします。


自殺について 追録

2005年02月11日 21時10分05秒 | つぶやき

 最初に書いた「自殺」について反響がけっこうありました。とはいえ、このブログを知っているのは小数なので、絶対数自体は少ないですが、割合でいうと多いと思いました。

 やっぱり「死」というものについて多くの人が考えているのだと思います。ニュースを見ていても、死について取り上げられない日はないでしょう。それくらいたくさんの人が死んでいるのです。その人たちは死んだらどこへいくのでしょうか。

 仏教的な考え方だと、死んだらまた現世に生まれ出ずると言われています。すなわち「輪廻」というものです。生きてる間に善行をしていれば、よい環境・人物として生まれることができます。さらに、仏教を深く信仰していくことでその輪廻の輪から抜け出すことができるといわれ、それを「解脱」と言います。仏教徒の人たちは、解脱を目指して、日々生活しているのです。解脱した先には何が待っているのでしょうか、僕は仏教について勉強したわけではないのでそこまでわかりません。きっと仏教を信仰している人たちは、死について恐れはないのでしょうか。

 僕は恐いです。死ぬのが恐いです。だから、死なずにすんだというのもありますから、悪いことばかりではないとは思います。死後の世界がどうなっているのか、考え出したら不安でたまりません。ダンテという詩人が書いた「神曲」という本があります。その本では、死後の世界が描かれているのですが、僕は神曲の中でも地獄変しか読んでないので、地獄の環境しかわかりません。そこではふだん当たり前のようにしていることで、責め苦を受けている人たちがたくさん描かれていました。恐いと思いました。丹波哲郎がいう「大霊界」というものは、宇宙のようなところを死んだ人が飛んでいく絵を使って説明していました。どれが正しいのかなんてわかりません。

 一時、問題になった「実験自殺」。僕が小学校か中学校のころにニュースになっていました。僕もそれがとても気になっていました。そのころは死にたいとも思ったことはなかったし、死後の世界なんて考えることもほとんどなかった。でも、テレビでは僕と同じくらいの人が死後の世界を見たいということで首をつって死にました。彼は今、どこにいるのでしょうか。地獄か大霊界か、それはわかりません。

 死の淵から帰ってきた人の中には、「三途の川を見た」とか「花畑が見えた」とか話す人もいます。これは人の深層心理に刻まれた死後の世界のイメージから来ているものだと思います。きっと宗教徒の人ならがその見える絵も違うと思う。本当に死んだらどうなるんだろう。霊になって、この世を彷徨う?僕にはそれほど強い信念もありません。だからきっとこの世にとどまることはありません。
 たまに遺書を書こうと思うことがあります。別に遺産があるわけでもありません。それでも、僕の考えられうる人に手紙を書いて残したいと思います。実際には、メールのがいいかなと考えることもありました。僕が死んだらこのメールをすべて送信してください、と。きっと半数の人は信じる事無く、何言ってんだよみたいな感じで返信するか、無視するかでしょう。それはそれでもいいと思う。僕は死んでしまうわけだし、そんなことに気づくこともないでしょうから。切ないですか??もし、あなたに僕からメールがきたら、センコウの一本でも上げに来てください。
 
 …大丈夫。今はまだ死にません。死にません。恐いから。死ぬのは恐いから。死ねません。僕はそういう弱い人間なんです。深いことは考えられても、けっきょくのところ答えは見つかりません。なので、もうしばらくこんな僕ですけどお付き合い下さい。


夢について

2005年02月11日 20時05分06秒 | つぶやき

 タイムマシンはとりあえず、前回ので一段落です。今回からは何回か単発のブログを書いて、落ち着いたらまた連載モノを書いていきたいと思います。もし、こんなネタやってほしいとかありましたらコメントまたはメールにてお知らせ下さい。

 今回は「夢」について語りたいと思います。一・二年前に自分で書いたものが出てきたので、それをすこし手直しして公表したいと思います。

 夢を持ち続けられる人でありたい。
 大人になることで、夢を捨てることが当然のように考えられ、たくさんの夢が捨てられてきた。今、どれだけの大人が夢を持ち、そして叶えることができたのだろうか。大切なのは、夢を叶えようと常に向上していくこと、向上しようとすること。今の自分に満足できなければ、変えればいい。夢を守る為に今を、自分を傷つけても構わないと、胸を張って言える大人になりたい。

 夢に挑戦する一番初めの時間。それは「今」である。刻々と変わりゆく世界の中で、いかに自分の夢を変えることなく生きていけるか。今までたくさんの人が考え、でも答えがでなかった問いかけ。
 夢に結果も答えもない。夢までの道程、その中でこそ人は輝いていられる。昔は誰もが夢を持っていた。口に出さなくても、心のどこかで夢を叶えたいと思っていた。でも、大人になってその夢が叶えられないことに気づいてしまうと、夢を諦め、簡単に捨ててしまう。何かと理由をつけて、自分自身を言い聞かせようとする醜態。自分から逃げる。自分を偽る。

 一歩でも今より進めれば、それでいい。その一歩に望みを託せないようになったら、人は二度と夢を持つことはない。嘘やその場の欲求を夢といい、でも心のどこかでそれが本物でないと気づいている。
 大人。大人になることで、たくさんの責任と共に自由が手に入る。責任に縛られ夢を諦めてもいいのだろうか。走り続ける自由を持っているのに、誰も走ろうとしない世の中にいては、それが当たり前のように表現され、誰も不思議に思わない。夢は若いやつ、子どもの願望と言い切り、夢を否定する大人。
 そんなあなたに届けたい。いつかの日、あなたが胸を熱くしたあの夢、そしてそれを叶えようとした思いを…


 どうでしょうか。何かを感じてもらえたでしょうか。自分の書いたものでも、ひさしぶりに読み返すと考えることも多いです。何年か前に書いたもので、今の自分とはまったく立場が違う。とっても子ども的な考え方だと思う。大人にはそれぞれ立場や事情があって、夢だけをみているわけにはいかない…と、自分が自然と考えるようになっている。そう、この文章を書いているときから僕は、自分の軽蔑していた大人に近づいてしまったということだ。夢はない。でも、そのことで悲しいだとか、切ないだとか思うことない。
 自分の限界を知ってしまうことで、それ以上望むことをやめてしまう。まとめて文章で書いてみるとその悲しみを実感することになる。あなたは今、夢を持っていますか?叶えようとしていますか?いつの日か、きっとあなたも現実の中で生きてしまうようになるでしょう。そう、「今」がこのままである限りは。。。


平行世界とパラドックス

2005年02月09日 19時20分42秒 | つぶやき
タイムマシン系第四弾!!

 そろそろ飽きてきたかな??哲学的な内容なので、「そんなことない」「まちがってる」という人もいるかもしれませんけど、しばらくお付き合い下さい。

 さて、今日はタイトルの通り、「平行世界とパラドックス」の関係について書きたいと思います。それぞれの語句の説明は以前にしてあるのでここでは割愛させていただきます。忘れてしまった人は、過去の記事を見てください。タイトルにそれぞれなっているので、そこに説明があります。

 今回はタイムマシンを使って過去へ行った場合を想定して話をしていきたいと思います。過去でも未来でもいっしょじゃないの?と思うかもしれないけれど、いろいろ問題があるので今回は過去に限定して話をします。いきなりですが、真髄を話します。

平行世界が存在するのならば、パラドックスは生じないだろう。

…ということです。と言われてもわからないでしょうから、これから説明していきます。マンガなどでタイムマシンにのって過去の恐竜や自分などを見に行ったりしているのをみたことがありますね。机の引き出しとかにしまってあるやつですけど。そこでのタイムマシンが時間だけでなく空間世界を超え、平行世界へと通じる、レモーバル・タイム・マシンであるとこ、そういう前提ならば自分のいた時空間に戻ることもできるし、過去に干渉してもパラドックスは生じない。つまり、現実に自分が生きてきた過去時空間に戻ることは出来なくて、それに似た過去時空間にならいけるということです。しかし、そうなると過去に戻ろうとも、自分の道を変えることはできない。

 ということは、過去時空間に戻り、そこで干渉をして未来を変えるようなことになったとしても、それは自分が存在した未来には介さないものであり、単に空想上のバーチャルであっても変わらないということになるだろうか。そこで、強盗などをして、その金品や金銭を自分のきた時空間に持ち帰ることができると、実世界にも影響を起こしてしまうが、罪を問われることはない。これはパラドックスというよりも、矛盾といえるだろう。
 そうなると過去や未来の平行世界へ行く場合、持ち込めず、持ち帰れないということが世界を保つ前提となる。その場合、タイムマシン自体は、その時空間から“異物”として認識されることはないだろうか、もしそうならばタイムマシンは排除されてしまうだろうから、時空間飛翔はできない。

 平行世界では、自分に似た存在があり、きっと多くの人が生きているだろう。中にはもう滅びているものもあるかもしれない。その数だけ宇宙があって、この瞬間にも平行世界が生まれているのだ。文明の進んだ平行世界では宇宙に住んでいるかもしれないし、レモーバルタイム(時空間)を超える技術を持っている世界もあるかもしれない。いや、それはないだろう。なぜなら、時空間を越えれるなら、今僕たちが存在しているこの時空間も何者かの手によって変えられてしまうからだ。世界が急に終わってしまうかもしれない。

 ただし、タイムマシンにしても、レモーバル・タイムマシンにしてもその行き先を選択することはできるのだろうか。時間に流れというものがあれば、その中で自分の存在自体が大きく歪んでしまう事だって、十分に考えられることなのだ。時空旅行というものができるかもしれないが、それによって平行世界間の均衡が崩れたら、この実世界はどうなってしまうのだろうか。僕たちがそんな片鱗を見ることができるのだろうか。これは誰にもわからない。


タイムマシンと平行世界

2005年02月08日 17時47分56秒 | つぶやき

 タイムマシン第三弾です。

 さて、前回パラドックスが起きてしまう過去への干渉について書きましたが、理解していただけたでしょうか。すごく哲学的な分野で、考え出すと眠れなくなる人もいるでしょう。問題で言うと、「たまごが先か、ニワトリが先か」に似ていますね。どちらが咲きに存在したのか。どちらがなければ、どちらかはないわけですから…

 今回は平行世界について語りたいと思います。
 平行世界とはどういうものなのでしょうか。聞いたことのない人も多いと思います。僕たちの暮らしているこの世界はたくさんの可能性の中の一つの世界でしかないわけです。例えば、両親が出会っていなければ自分は生まれてこない、存在しないものになります。ただ実際は出会い、恋をして自分が生まれてきたわけです。そのとき、出会わなかったときの世界も存在しているのです。いろいろな分岐で生まれた無限の世界が存在している。というのが平行世界の考え方です。

 今、この時間にもいろいろな可能性が生まれてその数だけの平行世界が生まれ、さらにそこから平行世界が生まれ…ねずみ講のように増えていくのです。もしかしたらどこかの平行世界では自分という存在はいなくなっているかもしれないし、自分ひとりで最後の時を迎えているかもしれない。無限の可能性を秘めているとはよく聞きますが、その可能性の分だけ平行世界が生まれるんです。

 そう考えると他の世界はどうなっているか、気になるところですね。ただ現実問題として、存在していても垣間見ることはできないでしょう。その世界は、時間の流れ自体は同じであっても、空間というものを超えているわけです。そう考えると平行世界へ行くには、タイムマシンではないということになりますね。強いて言うなら、「レモーバル・マシン」(空間機械)ということになるでしょうか。タイムマシンより現実味がなくなってきましたね。これはこれは。

 あなたは過去や未来の自分と、平行世界にいる無限の自分どちらに会いたいと思うでしょうか。


タイムマシンとパラドックス

2005年02月08日 17時30分19秒 | つぶやき
 さて、タイムマシン第二段です。

 その前にタイトルにある「パラドックス」について説明しなくてはいけません。パラドックスというのは、そのまま訳すと「逆説」ということになります。さらに逆説というのは「理論上はまちがっていても、実際は適していることなど」です。

 例えば「急がば回れ」理論上は急いでいるなら、最短距離でいくのが正しいけれど、そこには何かの障害がある場合にはあえて遠回りした方が早いということです。「負けるが勝ち」これもよく言う言葉かもしれないけれど、これも逆説です。

 それではなぜタイムマシンとパラドックスが関係あるのか。
 前述したように「タイムマシン」を使って過去に戻って、自分の都合のいいように過去を変えてしまえないことはほぼ確定でしょう。もしかしたら知らないうちに未来人によって、この現在が変えられているかもしれないけれど。。そして、例えば自分が過去に戻り、自分を殺してしまおうとするときにこの「パラドックス」が生じるわけです。

 なぜ?? よく考えてみてください。

 過去の時点のあなたが死ねば、未来の自分はいなくなります。ということは、未来の自分に殺されることはなくなり、未来の自分も生まれるわけです。わかりましたか?どっちにしても自分に殺されることはないわけです。それは自分でなくてもかまいません。最初の人類を滅ぼしにいって、もし本当に滅ぼしてしまったら自分はいなくなってしまう。ということはその滅ぼしたという事実が実現していることがおかしいわけです。人類が滅びるということは未来の人は誕生しないということ、誕生しなければ人類が滅ぼされることはないわけです。複雑なパラドックスです。

 どちらが先か、考えようにもそれは実際には起きえない事です。ここまでくると科学という分野を超えて、哲学の分野になります。古代から何代にもよってくみ上げられてきた哲学を用いてもこのパラドックスをとくことは出来ないでしょう。もし、実際に過去に戻れるものがあるとしたら、このパラドックスは時間という壁にどう処理されるのでしょうか。なぞです。


タイムマシンについて

2005年02月06日 21時10分54秒 | つぶやき

 誰もが一度は夢見るだろう「タイムマシン」それにのって、過去に戻ってもう一度人生をやりなおしたいだとか、未来にって自分の姿を見てみたいとか。でもそれはドラ●もんやキテレ●大百科、バッ●・トゥー・ザ・フーチャーの世界の話であって、現実ではそううまくはいかないようである。

 現在考えられている時間の壁を越える方法としては、光速を超えることがあります。この宇宙上で一番速く移動するものは光。一秒で地球を7周半といわれています。それを超えれば、時間の壁を越えて他の時代にいけるというわけです。
 しかし、これは不可能です。そもそも今の科学では物体を光速を越える速度にすることができないからです。肉眼で見たら、その地球七周半というのが一秒で移動するのでワープに見えることでしょう。たとえ光速を超える速度を作り出せたとしても、地球上の物質・技術ではその圧力に耐えることができません。物体は加速をしていくと、質量を増します。そして、周りの空間も一緒に質量を増して、物体自体が押し縮められてしまいます。そして光速になるころには、質量無限大・体積0という物質になるわけです。そうなれば物体は物体として存在することはできなくなります。

 光は光子という、小さな粒で構成されています。質量もほとんどないので、速く飛んでも大丈夫なのです。学者の中には、光子と同レベルまで加速に耐えうる素粒子(原子より小さい粒で、すべての物体の元)の存在がささやかれていますが、実際に確認されているわけでは有りません。というわけで、少なくとも現在は不可能とということです。

 さらに言えば、未来永劫、過去に戻るタイムマシンはできません。もし、それができていたとしたならこの世界は未来からの渡航者で溢れかえっているわけですから。でも、僕たちが作る未来がその現実をかえるかもしれない。そもそも時間が同時に同じステージを作っているなんて考えることなんてできないのだから。。。 今を生きることが大切ということなのだろうか。


神の存在

2005年02月06日 20時50分40秒 | つぶやき

 あなたは「神」というものがいると思いますか?

 宗教徒であれば、信じている人も多いと思いますが、基本的に多宗教・無宗教の意識が強い日本においてはあまり宗教的な要領はないと思います。それでも日本人は困ると神頼みをしたり、神棚を手を合わせたり、神を崇めたりすることがありますね。クリスマスにはイエスキリストの誕生を祝います。

 人間は神が創ったもの。世界も神が創ったもの。そう考えれば、生命の誕生など科学の範疇では考えきれないものも理解できるわけです。しかし、おかしい。絶対におかしい。神というものがいるならば、正義が屈することはなく、世界に涙はなく、幸せに溢れるはずなのである。違うだろうか。

 神が人を創ったのか、人が神を創ったのか、これはずっと争われてきた問題です。宗教学的に言えば前者となるでしょう。しかし、私の考えは後者です。神は人間が作り上げてしまったものでしかないのです。人間は未知や恐怖を前に、何かにすがりたいと思うのです。それは数千年前から変わりません。だから古代の壁画や書物などにも神の存在などが書かれているのです。自分を裏切らないだろう、必ずのものがほしいのです。そういった思想が作り出したものだと考えられはしないだろうか。

 人間は一人でいることに不安を覚えます。死に対して恐怖を覚えます。そういったものから自分を守る為に神という存在を作り上げてきました。その種類は宗教や民族などで多様化しています。自分の使いやすいように、というと語弊があるかもしれないけれどそういうことだと思う。

 神に頼ってはいけないとか、そういうことを言うつもりはないけれど、世界には神に明日を臨みながら、死んでいく命がたくさんあるということを忘れないでほしい。生きれるあなたはとても幸せだということを。



はじめまして。

2005年02月05日 18時06分02秒 | つぶやき

 Sanboです。

 人生80年と言われるようになった昨今、人間は何を求めて生きているのでしょうか。ふと思いました。セミなんて、何年も土の中にいて、空を知って一週間くらいで死んでしまいます。その短い人生の中で彼らは何の為に生きて、何の為に死ぬのでしょうか。子孫を残すことで、種としていき続けることが目的なのでしょうか。

 生命の起源はいまだはっきりしていません。海でたんぱく質なんかが突然変異で構築されていったみたいですけど、そうやって生まれた生物はどこまでいけばいいのか。まったくわかりません。生きるということは苦痛や幸福を伴い、自分に嘘をついて、人に嘘を付いて、自分というものを作り上げて必死に生きている。

 地球には63億の人がいて、一人として同じ人はないわけです。僕は僕で、あなたはあなたというたった一人の存在であることは確かです。傷つけ、傷つけられて、生きていくことをあきらめる人も多いのが事実です。今日のニュースでも若い人たちが車の中で練炭を炊いて、一酸化炭素中毒で死んでいたそうです。自殺。

 あなたは死にたいと思ったことはありますか? きっとだれもが一回くらいあると思います。僕もあります。ネットの自殺志願者の集まるサイトにいって、どんな死に方がいいか話し合ったこともありました。そんな人がたくさんいるということをしって落ち着いたというか、安心したのでしょうかね。人が死ぬというのを、止めている自分がいました。自分も死のうと思っていたのに。でもその中には実際に亡くなった人もいると思います。生まれてくるのは少なくとも二人の人が必要で、たくさんの人の思いを集めているのに、死ぬときには一人で、たった一人でしかも思うより簡単に終わってしまうんです。

 トイレやお風呂の窓やドアの隙間をガムテープでふさいで、そこで練炭を焚いて、自分は睡眠薬を飲み、眠りに落ちている間に一酸化炭素中毒になって死ぬというものです。僕が考えたものは。それはたくさんの人と話している中で考え付いたもので、みんなそれが一番だということになりました。飛び降りだとぐちゃぐちゃになるし、首吊りだと死んだ後括約筋なんかが緩んで、糞尿を撒き散らしてしまうので…なんて、自分の死んだ後のことを考えている時点で、死ぬ気なんかないんですよね。振り返ってみればそう思います。

 これからもまた死にたいと思うことがあるかもしれないです。ないとは言い切れないし、必ずあるともいえない。でも、今は死にたいとは思わない。…そう、僕が死ねない理由の一つに死ぬことが恐いということがある。ある意味、死ねるというのはかなりの勇気だと思う。普通の人は、「そんな勇気必要ない」っていうかもしれないえけど、死にたいなんて人はもういっぱいになって、どうしようもないから、でも何もできなくて苦しんでいるんです。そこから動き出せることはすごいと思う。ただしそれが負の方向であったということ。死ぬのがいいとか、悪いとか簡単にはいえない。死んだ人を前に「なんで死んじゃったの?」というかもしれない。もしかしたらあなたの責任かもしれない。あなたが原因かもしれないし、あなたを頼ることができたなら死なずにすんだかもしれないのだから。でも、死人に口なし、死人は責めません。


 暗い話になってしまいました。次回はもっと違う話を書きたいと思います。ごめんなさい。