奈良朝(710~784年)の貴族にとって花といえば梅。
『日本後紀』によると、812年(弘仁3年)、嵯峨天皇が南殿・神泉苑で最初の観桜会をを催したのが、日本で最初の公式でのお花見。
以後、桜の植樹も都では盛んになり、人々が桜に恋し、歌に多く桜が読まれるようになったのが平安時代。
江戸時代には、桜の品種改良も盛んに行われ、約250種類の桜があったそうです。
桜井 雪鮮(さくらい せっせん:1762-1804江戸時代中期-後期の画家)、市橋 長昭(いちはし ながあき:(1773-1814 現在の滋賀県蒲生郡日野町に存在した仁正寺藩の第7代藩主)らによって桜が写生された「花譜」全4冊には、234種の桜が描かれてるそうです。
ところが、明治元年旧9月8日(1868年10月23日)の際、大名の江戸屋敷は、住んでいた人たちが藩地に引き上げ大名屋敷の荒廃や屋敷が壊され、桑畑や茶畑にするため伐採、明治時代の文明開化により西洋化の波が来て、洋館への改築、木々の伐採などにより東京から桜が姿を消してきます。
江戸時代の桜が消えるのが忍びないと、駒込「梅芳園」の植木職人・高木孫右衛門が桜を捜し歩いて枝をもらい、自分の家の庭に桜を根付かせ、保存していきます。
桜は環境の変化に弱く、移植して育てるのは 難しいそうなので、大変な苦労だったと思います。
1886年(明治19年)、現在の足立区の代表者である江北村村長の清水謙吾が、堤防修復工事と共に桜の植樹を提案。
彼は、「里桜」にこだわり、旧知の間柄の高木孫右衛門が集めた庶民では中々鑑賞できない日本各地の名木の桜の苗78種3225本を譲ってもらいます。
そして川口との県境から西新井村に掛けての5.9kmの両岸にかけて、植樹されました。
この工事費用は、村人のたちの寄付金。村人50人から始まったが工事でしたが、賛同する他の村人たちが150人まで増えていったそうです。
この年に植えられた桜は、1903年(明治36年)~1912年(明治45)がもっとも見ごろで、開花時期も花の色も種類によって異なり、花見行楽の期間も長く人々を楽しませたそうです。
白や黄色、淡紅色や濃紅色などに彩られ、五色も霧がたなびくごとく見えたことから「荒川堤五色櫻」と称されるようになったそうです。
その桜は、アメリカのタフト大統領夫人の希望により、当時の東京市長 尾崎 行雄から日親善のために
1909年(明治42年)8月に桜二千本送りましたが、ワシントンに到着した頃、害虫被害により焼却処分。
尾崎 行雄は、農商務省の古在農学博士に、害虫に強い桜の苗木の調達を依頼。
そこで、まず静岡県にある農林省・興津園芸試験場(現在の果樹研究所カンキツ研究部)で東京の荒川堤の桜並木から穂木を採取、高い園芸技術をもつ伊丹の東野村で病気や害虫の少ない元気な台木1万5千本の注文。
*元気な桜の木の枝を切り取ってそれを土に挿し木し、やがて挿し木した枝に根が出て葉や幹の芽がでるとそれが台木となる。
1911年2月(明治44年)~興津園芸試験場で、ほしい種類の桜の木の枝を切り取り穂木をつくり、それを台木につぎ接ぎ木された苗木6,000本を横浜港からアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.に輸送され、一本も病気がない状態で到着。
1912年(明治45年)3月27日にホワイトハウスに近い ポトマック河畔に植樹されます。現在、この桜は、3000本あるそうです。
しかし、「荒川堤五色櫻」にも絶滅の危機が忍び寄ります。
1911年(明治44年)、政府は「荒川治水法案」を成立させ、荒川放水路開削事業の始まり、次々に「五色桜」も例外なく伐採されていきます。
また、堤防上が未舗装の交通量の多い国道で、土ぼこりがひどく、また、王子の工場の煙の公害などのより枯死する桜も多くなって、桜が減っていきます。
1916年には51種、555本。
1920年には50種、521本。同年、60種、600本を補植するが、生育うまくいかず。
1923年には、42種505本。
1924年、三好学博士(植物生理学の第一人者)の提唱により「史跡名勝記念物」に指定され、全国に知られ、花見客も増える。
1930年には38種328本。
1939年~1945年、第二次世界大戦が勃発。
1947年には、全ての桜が、燃料の為に薪とされました。
もう、「荒川堤五色櫻」はなくなりましたが、
「荒川堤五色櫻」の植栽事業に最年少で参加し、桜の維持管理も行なっていた清水謙吾塾の門下生・船津静作は、品種の絶滅を恐れ、自ら苗園を作り育成・保存。「五色桜」を守った第一人者がいます。
その彼と交流のあった、安行の苗木栽培家・小清水亀之助は、品種の絶滅を憂え、特別の指定を受け、1970年の時点で100種程の「里桜」を守ります。
1952(昭和27)年 「五色桜」を復活を願った区の希望は聞き届けられ、ワシントン在外事務所を通じて、
かつての荒川提の桜、72種367本が送られ、植林されるが全滅。
1981年にワシントンから35種約3000本の桜の苗を持ち帰り、足立区政50周年を記念して足立区内に植えられ、復活します。
江北五色桜が、足立区内の都市農業公園で見ることが出来ます。
100年前の荒川堤「五色櫻」を復活させる為、現代でも世界に誇れる荒川の五色桜を復活させるために活動している会もあるようです。
http://www.adachisakura.com/
2011年の京都の桜。
開花は、例年よりも3日早かったものの、寒さ続きで満開は一週間くらい遅い感じ。
魁桜(さきがけさくら)
開花時期 - 3月28日頃
平野神社の代表的な桜です。花は白く、一重の枝垂れ。
寝覚桜(ねざめさくら)
開花時期 - 4月 5日頃
花は白色の一重で、葉が茂ると同時に開花します。
寝覚桜も平野神社を代表する桜です。
胡蝶桜(こちょうさくら)
開花時期 - 4月 8日頃
花は淡紅色の大輪で満開時には、蝶が飛んでいるように見える桜です。
嵐山桜(らんざんさくら)
開花時期 - 4月10日頃
花は紅白色で五弁の一重咲き、山桜系の里桜です。
虎の尾桜(とらのおさくら)
開花時期 - 4月15日頃
花は白色で花梗短く枝に直接咲きます。虎の尾のような縞模様が見られます。
名前の由来は、その形から虎の横たわる姿に見立てた説と、
おしべの変化した旗弁が花の中央から出ているところ呼ばれるようになった説があるそうです。
平野妹背桜(ひらのいもせさくら)
開花時期 - 4月15日頃
花は淡紅色で、花柄の先に2つのかわいい実がつきます。
平野妹背桜も平野神社を代表する桜です。
御衣黄桜(ぎょいこうさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は黄緑色で花弁に濃い緑色と紅色の線があります。
松月桜(しょうげつさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は大輪で最初淡桃色で次第に白色に変わります。
手弱女桜(たおやめさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は濃淡紅色で葉の薄黄緑と良く合います。手弱女桜も平野神社を代表する桜です。
突葉根桜(つくばねさくら)
開花時期 - 4月20日頃
菊のようにたくさんの花びらをつけます。
最初は小さく咲きますが、最後には大輪になります
『日本後紀』によると、812年(弘仁3年)、嵯峨天皇が南殿・神泉苑で最初の観桜会をを催したのが、日本で最初の公式でのお花見。
以後、桜の植樹も都では盛んになり、人々が桜に恋し、歌に多く桜が読まれるようになったのが平安時代。
江戸時代には、桜の品種改良も盛んに行われ、約250種類の桜があったそうです。
桜井 雪鮮(さくらい せっせん:1762-1804江戸時代中期-後期の画家)、市橋 長昭(いちはし ながあき:(1773-1814 現在の滋賀県蒲生郡日野町に存在した仁正寺藩の第7代藩主)らによって桜が写生された「花譜」全4冊には、234種の桜が描かれてるそうです。
ところが、明治元年旧9月8日(1868年10月23日)の際、大名の江戸屋敷は、住んでいた人たちが藩地に引き上げ大名屋敷の荒廃や屋敷が壊され、桑畑や茶畑にするため伐採、明治時代の文明開化により西洋化の波が来て、洋館への改築、木々の伐採などにより東京から桜が姿を消してきます。
江戸時代の桜が消えるのが忍びないと、駒込「梅芳園」の植木職人・高木孫右衛門が桜を捜し歩いて枝をもらい、自分の家の庭に桜を根付かせ、保存していきます。
桜は環境の変化に弱く、移植して育てるのは 難しいそうなので、大変な苦労だったと思います。
1886年(明治19年)、現在の足立区の代表者である江北村村長の清水謙吾が、堤防修復工事と共に桜の植樹を提案。
彼は、「里桜」にこだわり、旧知の間柄の高木孫右衛門が集めた庶民では中々鑑賞できない日本各地の名木の桜の苗78種3225本を譲ってもらいます。
そして川口との県境から西新井村に掛けての5.9kmの両岸にかけて、植樹されました。
この工事費用は、村人のたちの寄付金。村人50人から始まったが工事でしたが、賛同する他の村人たちが150人まで増えていったそうです。
この年に植えられた桜は、1903年(明治36年)~1912年(明治45)がもっとも見ごろで、開花時期も花の色も種類によって異なり、花見行楽の期間も長く人々を楽しませたそうです。
白や黄色、淡紅色や濃紅色などに彩られ、五色も霧がたなびくごとく見えたことから「荒川堤五色櫻」と称されるようになったそうです。
その桜は、アメリカのタフト大統領夫人の希望により、当時の東京市長 尾崎 行雄から日親善のために
1909年(明治42年)8月に桜二千本送りましたが、ワシントンに到着した頃、害虫被害により焼却処分。
尾崎 行雄は、農商務省の古在農学博士に、害虫に強い桜の苗木の調達を依頼。
そこで、まず静岡県にある農林省・興津園芸試験場(現在の果樹研究所カンキツ研究部)で東京の荒川堤の桜並木から穂木を採取、高い園芸技術をもつ伊丹の東野村で病気や害虫の少ない元気な台木1万5千本の注文。
*元気な桜の木の枝を切り取ってそれを土に挿し木し、やがて挿し木した枝に根が出て葉や幹の芽がでるとそれが台木となる。
1911年2月(明治44年)~興津園芸試験場で、ほしい種類の桜の木の枝を切り取り穂木をつくり、それを台木につぎ接ぎ木された苗木6,000本を横浜港からアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.に輸送され、一本も病気がない状態で到着。
1912年(明治45年)3月27日にホワイトハウスに近い ポトマック河畔に植樹されます。現在、この桜は、3000本あるそうです。
しかし、「荒川堤五色櫻」にも絶滅の危機が忍び寄ります。
1911年(明治44年)、政府は「荒川治水法案」を成立させ、荒川放水路開削事業の始まり、次々に「五色桜」も例外なく伐採されていきます。
また、堤防上が未舗装の交通量の多い国道で、土ぼこりがひどく、また、王子の工場の煙の公害などのより枯死する桜も多くなって、桜が減っていきます。
1916年には51種、555本。
1920年には50種、521本。同年、60種、600本を補植するが、生育うまくいかず。
1923年には、42種505本。
1924年、三好学博士(植物生理学の第一人者)の提唱により「史跡名勝記念物」に指定され、全国に知られ、花見客も増える。
1930年には38種328本。
1939年~1945年、第二次世界大戦が勃発。
1947年には、全ての桜が、燃料の為に薪とされました。
もう、「荒川堤五色櫻」はなくなりましたが、
「荒川堤五色櫻」の植栽事業に最年少で参加し、桜の維持管理も行なっていた清水謙吾塾の門下生・船津静作は、品種の絶滅を恐れ、自ら苗園を作り育成・保存。「五色桜」を守った第一人者がいます。
その彼と交流のあった、安行の苗木栽培家・小清水亀之助は、品種の絶滅を憂え、特別の指定を受け、1970年の時点で100種程の「里桜」を守ります。
1952(昭和27)年 「五色桜」を復活を願った区の希望は聞き届けられ、ワシントン在外事務所を通じて、
かつての荒川提の桜、72種367本が送られ、植林されるが全滅。
1981年にワシントンから35種約3000本の桜の苗を持ち帰り、足立区政50周年を記念して足立区内に植えられ、復活します。
江北五色桜が、足立区内の都市農業公園で見ることが出来ます。
100年前の荒川堤「五色櫻」を復活させる為、現代でも世界に誇れる荒川の五色桜を復活させるために活動している会もあるようです。
http://www.adachisakura.com/
2011年の京都の桜。
開花は、例年よりも3日早かったものの、寒さ続きで満開は一週間くらい遅い感じ。
魁桜(さきがけさくら)
開花時期 - 3月28日頃
平野神社の代表的な桜です。花は白く、一重の枝垂れ。
寝覚桜(ねざめさくら)
開花時期 - 4月 5日頃
花は白色の一重で、葉が茂ると同時に開花します。
寝覚桜も平野神社を代表する桜です。
胡蝶桜(こちょうさくら)
開花時期 - 4月 8日頃
花は淡紅色の大輪で満開時には、蝶が飛んでいるように見える桜です。
嵐山桜(らんざんさくら)
開花時期 - 4月10日頃
花は紅白色で五弁の一重咲き、山桜系の里桜です。
虎の尾桜(とらのおさくら)
開花時期 - 4月15日頃
花は白色で花梗短く枝に直接咲きます。虎の尾のような縞模様が見られます。
名前の由来は、その形から虎の横たわる姿に見立てた説と、
おしべの変化した旗弁が花の中央から出ているところ呼ばれるようになった説があるそうです。
平野妹背桜(ひらのいもせさくら)
開花時期 - 4月15日頃
花は淡紅色で、花柄の先に2つのかわいい実がつきます。
平野妹背桜も平野神社を代表する桜です。
御衣黄桜(ぎょいこうさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は黄緑色で花弁に濃い緑色と紅色の線があります。
松月桜(しょうげつさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は大輪で最初淡桃色で次第に白色に変わります。
手弱女桜(たおやめさくら)
開花時期 - 4月20日頃
花は濃淡紅色で葉の薄黄緑と良く合います。手弱女桜も平野神社を代表する桜です。
突葉根桜(つくばねさくら)
開花時期 - 4月20日頃
菊のようにたくさんの花びらをつけます。
最初は小さく咲きますが、最後には大輪になります