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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

個人的な2014年

2014-12-23 12:08:21 | 日記

先日、個人的なことを書こうと思ったら、いつの間にか話は他の方向へと自然と流れていってしまった。まあ、僕個人の話など、他の人にとってはどうでもいいことなのだけど、ウェブログという昔ながらの日記的な意味合いでこれを書いている。

 

まずは今年の悪かったことから振り返ろう。

何と言っても、祖母の突然の死と僕自身の長期にわたる体調不良だ。

このふたつに限る。

まあ、祖母の死は僕がちょうど埼玉へ帰る1週間ほど前の出来事だった。突然、父からの電話の祖母の死を知った。すぐに翌日のチケットを手配して帰り、その数日後に再び埼玉へ帰った。それほど苦しむこともなく、年齢を考えれば大往生と言ってもいいだろう。そういう意味では、彼女にとっては幸せな最期だったかもしれない。僕はそう考えているし、不謹慎な話だけれど、それほどのショックもなくそのまま受け入れることが出来た。ただ、突然過ぎただけ。病院ではなく、自宅でだれも気づかないまま逝ってしまったが、それも彼女自身が望んでのことだったに違いないと思っている。

 

深刻だったのは、長期にわたった僕自身の体調不良の方だった。

別に因果関係を問うつもりもないが、今年6月に出版した「原発村の1年半」(続編を計画中)のために3月11日と12日に福島県の双葉町に入った。すでに本を作る材料(写真)「は手元にあったのだが、どのように編集したらいいのか検討もつかなかった。そこで、友人に連絡を取って写真の場所を直接見たいと頼んでいろいろと手配してもらったのだった。日程を決めたのは、ちょうど3年後のその日と「原発がヤバイ」と避難勧告が出た翌日の2日間をその場所で過ごそうと思ったのだ。(実はもうひとつその時期だった理由はあるが、あとで語る)

双葉町を中心に福島県を回ってもらった。仮設住宅にも行ったし、そこに住んいる人の話も聞いた。(聞いた話は文章にしていないが、前向きな人、後ろ向きな人とさまざまであったことだけ言っておく)そこで感じたのは、「感覚の麻痺」だった。除染対象レベルの場所でも普通に人々は歩いていて、子供も一緒に歩いている。福島では放射能に敏感になりすぎると逆にいじめに合うという衝撃的な話も聞いた。

僕は、目に見えない放射能だけではなく、目に見えない人の心まで何となく見てきたような気がしたものだった。

そこから沖縄に帰ってすぐ、僕は高熱を出して寝込んでしまった。以来、体調がひどく悪くずっと風邪をひいているような状態だった。常にマスクをしていた。ちょうど『THETHE』がスタートするタイミングだったので、少々きつかった。

好きな海にもほとんど行かず、サーフボードが干からびるんじゃないかというくらい、ずっと陸にいた。たまにどうして海に行きたくなり、サーフボードを持って海に行くのだがすっかり落ちてしまった筋肉では沖まで出るのが精一杯。いくつものいい波をスルーして体力が回復するのを沖でずっと待っていた。そして1本ようやくのると、すでに沖へ戻る体力はなかった。結構な時間をかけて、1本だけ波に乗ってその勢いに任せて岸に向かう。それも月に1回も行っていない。昨年は週に2~3回海に行ってのと比べると大きな違いだ。

 

でも、体調不良のお陰でさまざまなことを学んだ。食のこと、東洋医学のこと。

さまざまなものを試しているうちにいろいろなことに気付かされた。

どうやって自分で自分自身を直す力を養うのかということ。

もちろん西洋医学で痛みや苦しみを和らげてもらうというのは悪いことではない。ただ、病気によっては、単に薬で抑えこんでいるだけで、抑えこんでいる間はいいのだけれど、抑え込めなくなった時にはよりヒドいことになっている。結局自分が持っている力で治さないといけないということを身をもって知った。

そう考えると、まったくもってダメだったかというとそうでもないのかもしれない。

 

 

さて、今年僕のテンションをマックスにあげてくれた出来事はコレだ。

「ももクロ春の一大事国立競技場大会」。

3月15日。(残念ながら16日のチケットは取れなかったので、埼玉の映画館でライブビューイングで見たのだけれど)

本当にモノノフさんたちはいい人ばかりで、隣のカップルの女性の方が始まる前にノド傷めないように飴をくれたり、周りの人と軽く話をしたりしながら開演を待っていた。隣にいる友人はほぼ初めてももクロを見るというか、曲もそれほど知らない状態で座っており、でも周りの熱気にやられてるようでもあった。今、彼は「エセノフ」と呼ばれている。しかも、僕が距離的な問題で行けないももクリに行く(怒)

 

やはり、今年一番の出来事と言えば、『THETHE』の創刊だ。

コンセプトは僕と冥砂さんの好きなもの。

それだけ。それってあまりにも漠然としすぎていて、最初は手探り状態だったが、今ではとても明確になっている。いくどももやりとりの中で共通の感覚が共有出来たのだと思う。

『THETHE』の取材で知り合った人たちは僕に大きな影響を与えてくれた。彼ら、彼女らの生き方や自然や自分との向き合い方はとても刺激的だった。(『THETHE1』で紹介している)

人それぞれの向き合い方を教えてもらい、それらを僕は試してみた。先の体調不良を治すために。いろいろと試していく中で、僕の中でひとつの結論めいたものが出た。

 

「朝早起きして散歩し、晴れている日は朝日を浴びる」

「常に丹田を意識する」

 

このふたつに帰結した。

単純なことなのだが、「常に丹田を意識する」のがまだなかなか出来ないのが現状。だから、ヨガに通うと思っていたのだが、結局それは年明けになってしまった。

 

『THETHE』の創刊の影響はもっとあり、僕の意識が海以外のところへと向いていったことだ。これ以上は『THETHE2』で書いたこととかぶるのでやめておくが、僕の個人的な目標に昔からやってみたかった、富士登山とマラソン完走が加わった。

いずれも腰に問題を抱えているために諦めていたことだった。

FBでも書いたけれど、どちらも多くの人が軽く成し遂げていること。でも、僕にとってはとても大きなことなのだ。

FBで当初掲げた目標のスケジュールは少しだけ変えたけれど、富士登山もマラソン完走も2年後の49歳で成し遂げようと思っている。

そして、初マラソンはホノルルマラソンに決めた。タイムはどうであれ、完走すればいいので、NAHAマラソンよりも制限時間の1時間長いホノルルに目標を定めた。まあ、ホノルルマラソンって聞こえもいいし(笑)ホノルルマラソンを完走するというのが昔からの夢だったし。

富士登山に関しては特に日程は決めていない。とりあえず山を歩くということから始めて、山の楽しみ方を知ることからだろう。多分、僕が想像しているのとは違うだろうし。

 

ここ2~3年ほど腰の治療に集中したり、癒えてからはサーフィンばかりをしていた僕にとっては、今年1年は結構大きな一歩を踏み出した年だったと言えるだろう。

50歳を目の前にしてというのは、ちょっと遅すぎる気もするけれど。

 

というよりも、50歳が見えてきてちょっと焦ったのかもしれない。

そもそも僕は50歳を過ぎたら余生に入ろうと思っていたのだから。でも、それはどうやらムリらしい。

 

(アイドル関係の話はももクロだけで他は割愛させていただきます)

 


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