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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

名画とは何をさしてそう呼ぶのか?

2012-12-21 01:15:59 | 映画
先日、那覇市のパレット久茂地の屋上へ行った。
そこにはいくつかのレストランとパレットシネマという映画館がある。
桜坂劇場と関係があるのか、桜坂劇場の上映前には必ずと言っていいほどパレットシネマの上映予告が流れる。
それは、いわゆる予算のない地方局の地方ならではのテレビコマーシャルのようなものなのだが、それはそれで味わいがある。

今、そのパレットシネマで午前10時の映画祭という企画をしている。
過去の作品をランダムに上映。その期間は1週間から10日程度。
で、そのセレクトがスゴい。

ちなみに……
~12月21日(金)『シザーハンズ』
12月22日(土)~28日(金)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
以降、ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』、ビリー・ワイルダーの『情事』『サンセット大通り』、ヒッチコックも『レベッカ』『鳥』、そして『エイリアン』、『キャリー』。

この企画は今年の3月からやっていたらしい。以前のラインナップを見てみると、フェリーニの『道』『甘い生活』やアメリカン・ニューシネマの名作『卒業』や『タクシードライバー』など過去の名作もあれば、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』なんていう比較的新しい(と言っても16年前の作品だ)作品まで上映されていた。

それにしても、実に脈絡の感じられないセレクトに最初に戸惑いを覚えたのだが、よくよく考えてみたら、これでいいのだという結論に達したのだった。
先日、一回りつまり12歳年下の奴と話をしていた時に、映画の話しになった。彼がもっとも好きで影響を受けた映画は、なんと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと言っていた。
それは、僕にとって驚きだった。
僕の中で名作と定義されていたものは、映画的表現を画期的に変えたような作品だった。
例えば、ヌーヴェル・ヴァーグの幕を開けたゴダールの『勝手にしやがれ』だったり、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージーライダー』だったり、ニーノ・ロータの音楽が印象的な『ゴッドファーザー』だったり。
もちろん、黒澤明の作品群や小津映画なども。

でも、よく考えてみると、それらは決してリアルタイムで見たものではない。僕は、編集者として映画もページなど、担当していたからこそ、それらを知っているのであって、そんな映画など知らない人の方がはるかに多いということを忘れていたのだ。

映画は音楽同様リアルタイムで聴く方が、その良さを実体験の中で感じることが出来るはずで、いくら名作と言われても、過去の作品はただの古い映画としか思われても仕方ない。それに、2時間近い時間を費やすのだから、そうやすやすと見られるものでもないだろう。

でもだ。やはり今でも名作と呼ばれる作品は素晴らしい。
時代を象徴しつつも、それが今という時代にも通じる普遍性を持っている作品が多いのだ。

先ほど例に挙げたジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』。見たことのある人でも、おそらくただジャン・ポール・ベルモントとジーン・セバーグがひたすら走っているというシーンを思い浮かべるはずだ。
乱暴なことを言えば、その印象通りただ走っているだけの映画なのだ。
でも、そこには当時のパリの若者の焦燥感が見事に表現されていた。
その表現が斬新過ぎて、当時は賛否両論だったという。
この映画、原題をÀ bout de souffleという。直訳は「息切れ」。
そんな邦題では間違いなく当たらなかっただろう。この邦題をつけたのが、秦早穂子先生。(僕は若い頃とても秦先生にお世話になったのだ)
秦先生は、1959年にパリの試写会でÀ bout de souffleを観て、あまりの衝撃に買い付けしないとダメだと、日本側(日本の配給会社)の了解を得ずに、すぐに買ってしまという。その時はクビ覚悟していたと本人は言っていた。


僕が思うに、名作と呼ばれる作品はその時代を象徴しながらも、そのどこかに人や社会が持つ普遍的なもの、それは愛でもいいし、若者特有の焦りでもいいし、哀しみでもいいし。
そんなものを見事に表現したものを名作の呼ぶのだろう。

前述の一回り年下奴が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』言ったのも、そこ何らかの普遍的なテーマが隠されていたからだと思う。
それは、人が誰しも望むであろう、過去の訂正。つまりやり直したいという願望ではなかろうかと思うのだ。
そして、自分も未来を思う通りのものにしたいという願望。

あの映画はそんな願望を擬似的に叶えてくれた。

だからこそ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を名作と呼ぶ人が存在するし、
今、那覇市のパレットシネマで開催されている「午前10時の映画祭」でラインナップされているのであろう。

いい映画を観終えた時、いつも見慣れた風景ちょっとだけ違って見えるのは僕だけだろうか。

エヴァンゲリオン新劇場版Q

2012-12-12 23:54:07 | 映画
庵野秀明は現在を切り取る名監督。というよりも職人のような監督であるような気がするのは僕だけだろうか?
村上龍の「ラブポップ」を映画化した時も、彼ならではの現在のほんの一部、いや一瞬を切り取り、それがすべてを象徴するかのように感じさせた。庵野秀明は、ある一部分だけを深く描くことによって、観るものに時代そのものを想像をさせようとしているのではないかと思うのだ。
それは、正しい映画のあり方だ。以前、黒沢清が「映画の本質はホラーにある」というようなことを言っていたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」はホラーではないけれども、映画の本質を突いた作品だったと思う。

昔の名監督と言われた人たちは、「見せないことによって見せる」という手法をとった。それは予算もなくフィルムを無駄に出来ないという制限の中から生まれた手法なのだが、でもそれが名作を生んだのだった。

音声のなかった時代、映画は動きだけですべての物語を伝えた。
映画が言葉を持った時代に入ってからは、言葉が費やす時間(つまりフィルムを使う分)その他の部分を省略せざるを得なかったのだと思う。しかし、それが、映画の本質である省略によって観客に想像を促すという、数々の名作を生んだのだ。ジャン・ルノワールしかり、ジャン・コクトーしかり、ロベルト・ロッセリーニしかりだ。もちろんアメリカも素晴らしい監督たちを生んだ。スタージェスやオーソン・ウェルズなど。

どの映画だったのか記憶にないが、ある男女が朝食に半熟のゆで卵を食べるシーンがあった。日本人にはこれが何を意味しているのかは当時も今もわからないと思うのだが、これはその前の晩に二人に何かがあったことを意味していたのだという。それはアメリカ人にとっての共通認識だった。一昔前の日本で言えばモーニングコーヒーということになるのだろうか。
そのような世間の共通認識を通して、描くことなく映画を描いたのだった。

黒沢清の言葉に戻ろう。
「映画の本質はホラーにある」
ホラー映画がなぜ怖いのか、それは怖いものの実態を見せないからだ。
例えば、遠くで響く物音などがその代表的な例だという。
つまり、見せない、描かないことによって、観客の想像力を喚起させるものこそが映画で、そのような映画こそが素晴らしいとされる映画なのだと。

国内外の名作と言われる映画にはどこかにそのような要素が入っているはずだ。北野武が海外で評価されるのは、そのことをきちんと踏まえた上で映画を作っているからだ。しかも、それが非常に上手いし、構図も素晴らしい。

話がだいぶ逸れたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」は、この描かないということを大胆にやってのけた。
しかも、次への期待をさらに膨らませる形で。

この映画を観る時に当ってピッタリの言葉がある。
それは、あのブルース・リーの言葉。
「Don’t think,Feel!」


賛否両論あるようだが、時代のある瞬間を切り取る名人庵野秀明のエヴァンゲリオンは時代ともに進化し、時代にシンクロしていっているように思えた。だからこそ、テレビ版とも違うし、いわゆる旧劇とも違う。
まさに今という時代を見事なまでに描いていると思う。



超個人的音楽史

2012-11-20 05:44:51 | 映画
先日、Facebook上で思わぬ音楽談義(?)になったので、少しばかりブログで僕の個人的な音楽史を書こうと思う。
70年代後半から80年代後半にいわゆる思春期を迎えた年代、つまり現在40代半ばの人たちは、ある意味で音楽に興味を持ち始めた頃にさまざまな音楽的変革を実体験したと思う。
今、団塊世代と呼ばれている60代の人たちはビートルズの出現に熱狂したが、おそらくそれ以上の衝撃をを目の当たりにしたと思う。

というのは、70年代後半から80年代後半の音楽は急激にその幅を広げていったから。
今の流行の音楽の根源はそこから来てると僕は思っている。ゆえに、今の音楽に熱狂できずにいるのだが……(もちろん、好きなアーティストはたくさんいるけど)。

一般的に特に重要とされるのは1970年代後半。この頃に出現したのはセックス・ピストルズに代表されるロンドン・パンク。ラモーンズやトーキング・ヘッズ、僕の大好きだったブロンディなどのニューヨーク・パンク。日本でもパンクロックバンドが多数出現した。
と同時期に、イエロー・マジック・オーケストラ(=テクノ・ポップ)が登場した。
ロンドン・パンクはピストルズの解散で急激に衰退してしまったが、すぐにデュラン・デュランやカルチャー・クラブ、ヒューマンリーグなどのニューロマンティックというジャンルが台頭した。
ハードロックもギターテクを競うような曲から、よりメロディアスでクラシック音楽にその根源が求められるようなものへと変わっていった。

細かいことを言えばキリがないのでここでやめておくが(僕は音楽評論家でもなんでもないので)、
とにかく何でもありの、混沌とした時代だった。

そんな時代にいわゆる思春期を過ごした僕は、いろいろなものをごちゃまぜに聴いていたような気がする。
つまり、音楽の流れに沿って聴いて来たわけではなく、何の脈絡もなく、さまざまなジャンルのものが耳に入って来た。
中学生当時は確かお小遣いが2500円。そして記憶ではLPレコードの値段が2500~2800円だった。
つまり、月に1枚買えるかどうかということ。当然レコード選びには慎重だった。
その頃の田舎のレコード屋さんには視聴というシステムもなく、聴いてみたいと思っても聴かせてくれるような人のいい店長もなかった。
だから、とにかくFMラジオのチェックは欠かせなかった。今や懐かしいエアチェックというやつ……。
これって、多分僕ら世代が最後くらいでは?
あの頃のラジオって、テープに録音することを前提で今で言うナビゲーターもしゃべっていたような気がする。
「次は○○○」と曲紹介をして、少し間があってから曲が流れていた気がする。
それをタイミングを見計らってテープに録音したものだった。

そんな中でどうしてもレコードを欲しいと思ったものを購入したのだ。
僕が最初に買ったLPレコードは確かロッド・スチュワートのベスト盤。ちょうど、「I'm sexy」とかが流行っていた頃のもの。今思うとなんで買ったのかよく分からないのだが。

僕が中学生だった70年代半ばにはイージーリスニングというものもなぜか流行っていた。ポール・モーリア。リチャード・クレイダイーマンなど。ラジオでロックを、テレビでは歌謡曲を聴いていた自分にとって、イージーリスニングというインストはどこか大人の香りがした。そしてリチャード・クレイダイーマンのアルバムを購入したことを鮮明に覚えている。

高校時代になると、僕はより洋楽(特にロック)へと傾倒していった。バンドではハードロックを、家では当時流行のYMOに代表されるテクノポップ(今のテクノとは全くの別物です)やビルボードを席巻したロンドン発のニューロマンティック(デュラン・デュランやヒューマンリーグなど)、そしてマドンナ、シンディー・ローパー、RUN DMCで初めて知ったヒップホップ(当時はラップと言っていた)、何より驚かされたのは、やっぱりマイケル・ジャクソン。
その一方で、恥ずかしながら、松田聖子と早見優のLPレコードは欠かさず購入、コンサートにもよく行ったものだった。
今思うと、80年代前半は特に様々なものが登場し、ちょうど今の時代の音楽の萌芽が見え隠れしているような気がする。

大学生になると、ドライブミュージックが中心となっていった。一人で運転している時に聴くテープ、女の子とのドライブで聴くテープ、野郎どものとのドライブで聴くテープの3種類が常にクルマに準備されていた。この頃に、僕は音楽のTPO(?)を覚えた。80年代後半、バブルの時代のドライブミュージックと言えば、サザンとユーミン。たまにプリンセス・プリンセス。一人の時はガンズ・アンド・ローゼスを大音量でかけていたことを思い出す。

大学3年の時だった。急にアメリカをバスで横断することを思い立った。初めての海外、ろくに英語もしゃべれない。でも、どうして行きたかった。海外旅行なんて滅多に行けるものではない、時間のある今いかなくてはと。
アメリカを選んだのは生でアメフトを見たかったのと、子供の憧れたサンタモニカ(映画「スティング」でロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが出会うシーンで使われた回転木馬、当時僕が世界の中心と信じていたニューヨークをこの目で見たかったからだ。あとはアメリカに留学した先輩を訪ねることも目的にひとつだった。

このアメリカ一人旅が、僕は自分が本当に好きな音楽と出会うきっかけとなったのだ。
アメリカでは様々な人を出会った。目的地が同じであれば一緒に行動したりもしたし、だれもが貧乏旅行者だったので、折半してホテルやモーテルに泊まったりもした。
まずは、ジャズ。ロサンゼルスで知り合った人の中に、たまたま同じ明治大学の法学部、しかも同じ学年の男がいた。彼は、アメリカで本場のジャズを聴くことを目的としていた。ジャズのジャの字も知らなかった僕に、彼はいろいろなことを教えてくれたし、ニューヨークで再び合うをことを約束して一度別れ、再会したニューヨークでは様々なジャズクラブに連れて行ってくれた。日本に帰ってきてからも、彼はいろいろなジャズを聴かせてくれて、気に入ったCDはいくらでも貸してくれた。
実は、ジャズのことは余談。

僕の後の音楽的指向を決定付けたのが、アメリカに留学をしていた先輩宅を訪ねたときだった。
とにかく長距離バスで最寄りのターミナルまで行ったのだが、そこはシカゴから約2時間も離れた田舎町だった。
先輩はターミナルまでクルマで迎えに来てくれた。そのクルマで流れていたのがビートルズだったのだ。
それまで、僕はビートルズというバンドにあまりいい印象を持っていなかった。その理由は単純で、中学生のときに英語の授業で歌わされたからだった。浅はかな中学生は、学校で歌わされるようなものは格好悪いものと単純に思っただけのことだった。以来、ビートルズに触れることはなかったのだった。

ロンドンでもましてやリバプールでもない、ビートルズとは縁もゆかりもないないイリノイ州の田舎町で聴いたビートルズに僕は衝撃を受けた。窓の外を流れる風景とビートルズがまだライブをやっていた頃のロックンロールが妙にマッチして聞こえて来たのだった。僕はすぐに虜になった。

日本に帰ってすぐにビートルズのCDを購入した。確か最初に買ったのは「For SALE」(今思うと渋いとこから買ったなと思う)。インターネットなどなかった時代、様々な本を購入してビートルズについて調べまくり、ビートルズのCDに入っていたライナーノーツは隅から隅まで読んだ。そんなときだった。あれは多分「サージャント・ペッパーズ……」のライナーノーツだったと思う。その中にポールの発言が引用されていた。
「世界で一番素晴らしい曲はビーチボーイズの『神のみぞ知る(God Only Knows』だ……」
これを読んだ僕は、すぐに「Pet Sounds」を買いに走った。
そして1曲め「Wouldn't be nice」のイントロを聴いただけで、その虜になった。聴き終えたとき、滅多に泣くことのない僕の涙腺が緩んでいた。
そこから僕はひたすらにビーチボーイズを買いまくり、聴きまくった。そしてビーチ・ボーイズの本を読み、ブライアン・ウィルソンの自伝(とされているもの)を読み、ますます傾倒していった。幻のアルバムと言われた「Smile」のブートレグも買い集めたくらいだ。
また、音楽関連の書籍でその同時代のバンドを調べては(まあ、ジャケットのデザインを見ればだいたい分かるのだけれど)、買って聴きまくった。いいも悪いもたくさんあったけれど、10ccの「サウンドトラック」は今でもたまに無性に聴きたくなる。

バブルもすっかり弾け飛び、時代のキーワードに癒しが急上昇してきた時代、90年代半ばくらいだったと思う。
僕はブラジル音楽と出会う。アントニオ・カルロス・ジョビンを聴いたと言えばちょっと格好がつくけれど、残念ながら小野リサを通して知ったのだった。僕は急激にブラジル音楽へと傾倒していった。名盤と言われるものはもちろん、すでに社会人としてジャケ買いや大人買いの出来るようになっていた僕は、ブラジルと名がつくものを片っ端から聴いて回った。(ビーチ・ボーイズに関しては、僕の中で不動のものとなっていたので、これを聴きながら……)
そして、今もまだブラジル音楽好きは変わっていない。
そして、今でも「Pet Sounds」や正式に発売された「Smile」を聴くと胸がジーンとしてくる。

10年ほど前だったろうか、ブライアン・ウィルソンがソロでツアーを始め、日本公演をしたとき、銀座のHMVで行われたサイン会にはもちろん行ったし、そこで握手をしてもらったときは、感動と緊張でヒザがガクガクしたことを今でも覚えている。そしてコンサートで歌っているブライアンの姿を見たときは涙が出て来た。
なぜなら、二度と復帰はないだろうと思っていたから。アルバムを出しても、ツアーなどしないだろうと思っていたから。往年の声が出なくても、やっぱりブライアンがそこにいるというだけで、僕にはそれで十分だった。

僕は雑誌の編集をしていたので、世界のさまざまな偉大とも言える人たちに会って来た。自分が好きなミュージシャン。映画監督、俳優、アーティスト(美術家)、建築家、デザイナー……。
でも、あれほどまでに緊張し、声すら出なかったのは後にも先にもブライアン・ウィルソンだけだ。


クラシックのこと、今勉強している(自分が習っている)沖縄民謡のことまで書くとあまりにも長くなりすぎるので、これはまた気が向いたときに書こうかと思う。