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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

映画「ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空を」

2013-03-15 19:38:56 | 映画
今日、2013年3月15日をもって、「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」が解散となる。
通称1フィート運動の会は全国から寄付を募って、沖縄戦関連の映像資料を買い集めるという運動をしていた。
そして30年という歳月をかけて、11万フィート、時間にして約5時間のフィルムを買い取ったという。
そのフィルムは編集され、様々な場所で上映された。
先週末にそのフィルムの最後の上映会が那覇市牧志のあおぞら公民館で行われたのだが、
どうしても行くことが出来ず、そのフィルムに関してはニュースなどで流される断片しか知らない。
でも、その断片だけでもそのフィルムの価値は分かったし、その運動が伝えたいことがいくらかでも伝わってくる。

記録フィルムと言えども、編集という作業を通すとそこにはどうしても作り手の主観が入ってくる。
記録フィルム、ドキュメンタリーというものは、その主観をいかに減らすか、どれだけ客観的になれるかがとても大切だ。
編集という作業をすると、印象的な場面、象徴的な場面を残そうとする。
その選択が正しいか否かは、その場面がいかにその前後に起きたことや
スクリーンの外側、つまりフィルムに写っていない部分で起こっていることを観客に想像させることが出来たかどうかにかかっている。
その意味において、1フィート運動の会のフィルムはそれをきちんと伝えてくれている。それは断片しか観たことのない僕にも伝わってくる。
また、いずれ観る機会が訪れることを心より待っている。

まえがきが長くなってしまったが、本題の映画「ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空」について。
この作品は沖縄復帰40年の企画として、昨年撮影されたものだ。
この作品は一般の映画館で上映されず、市民ホールや公民館などで数回程度しか上映されないので中々観る機会はないだろうから、内容にまで踏み込んで書いていく。

少し前まで大騒ぎになっていたオスプレイ。(もちろん沖縄県内では今でも問題になっている)
なぜ、それほどまでに過敏になっているか?
10年前の出来事を思い出してほしい。
米軍のヘリが沖縄国際大学に墜落した事件があったことを。
この時は夏休み中であったこともあり、幸いにも死傷者で出なかった。
(実は、その頃僕は沖縄に住んでいたので、とても記憶に残っている)

しかし、沖縄の人、特に年配の人にとってはそれよりももっと忘れることの出来ない事件があった。
それが、1959年に起きた石川市宮森小学校事件と呼ばれるものだ。
石川市とは現在のうるま市。そこにある宮森小学校の授業中に米軍のジェット戦闘機が墜落したのだという。
死者17名、重軽傷者210名という大事故だった。

この映画は、59年の事件と04年の沖縄国際大学の事件、そして現在(2012年)の3つの話で構成されていく。
現在の沖縄国際大学の学生がゼミの仮題として宮森小学校事件を掘り起こしていくというものだ。
過去の出来事はモノクロで、04年はアナログ的な画質で、現在をデジタル的なクリアな画質でという形となっている。
おそらく分かりやすくという意図であろう。しかし、それは残念なことに逆効果だったと思う。

それは、現代の部分を逆に際立たせてしまったことだ。
通常、モノクロは非常に効果的な手法で、そこには観るに否応なく想像をさせるからだ。
さらに、59年の事件を描いた部分は非常によく出来ていたと思う。
しっかりとした取材の元に脚本も書かれたのだろう。
子どもたちの演技も良かったし、監督の視線も比較的距離感を持ったものだった。

それが、現代の大学生たちを描くと途端に変わってしまった。
監督の視点がまるで距離感を失ってしまったかのようだった。
ナイチャーである僕がいうのもなんだが、途端に他人が当事者に対して、
「よく分かるよ」とでも言うような気持ち悪さを感じてしまった。
脚本自体もまるで別人が書いたかのように変わってしまっていた。
すべてのセリフがどこかで聞いたような凡庸なものになり、
演出も過剰に感情移入させようとしているようなのだ。

現代の部分では、基地反対を訴える人と
そう訴えたいが基地で働くことによって生計を立てている人の感情のすれ違いを描いている。
(ちなみに、地代収入者のことには一言も触れていない)
これが、しっかりとした取材を元に描かれた59年の事件を描いた部分と比べて
まるで表面を引っ掻いた程度にしか感じられなかったのだ。
それが非常に残念でならなかった。

この「ひまわり~」という作品も多くの団体、企業からの寄付によって作られている。
その支援などを考えると、何とも複雑な気分でリウボウホールを出たのだった。

59年の事件のことは知らなかったし、その事実を知ってほしいという趣旨には大いに賛成だし、
その意味では観ることの出来る人にはぜひとも観てほしいと思っている。
ただ、作品としてだけいうならば、おすすめするには何とも言えず複雑な気分になってしまう。

東京で観た映画「カラカラ」

2013-02-04 08:12:26 | 映画
昨日、「カラカラ」を観た。
沖縄で観た方が安く観られるのに、なぜか東京で観たくなったのだ。
たまたま、友人から誘われたということもあるのだが、
何となく、東京で観ることに意味があるような気がしたのだ。
そして、東京で観たことはある意味正解であった。
映画というものに関して、気づくことがあったのだ。

「カラカラ」は言ってみれば、典型的なロードムービーだ。
ロードムービーとは、主人公が移動をしていくことによって、人と出合い、場所と出合い、
その繰り返しの中から主人公が何かを見つけたたり、失ったり……そんな物語だ。
人が移動し続ける理由の多くは、自分の居場所を探すことだったり、常に非日常を生きて行きたいという欲求からくるもの。
つまり、ロードムービーとは非日常を生き続けようとする人の物語とも言えるのだ。

「カラカラ」では、フランス系カナダ人が初めての東洋体験として沖縄を選んでやってきた。
彼は沖縄の欧米人の持つ東洋イメージを求めてやってきたのだ。
そして、彼はそのイメージを求めて沖縄を旅していく。
そんな中で工藤夕貴演じる主婦と出合い、共に旅していくのだ。

映画は某有名リゾートホテルのシーンから始まる。
そこは彼が求めていた東洋イメージではないが、しかし非日常ではあった。
そもそもリゾートホテルとは非日常を楽しむ場所。
彼の旅=移動はホテルをチェックアウトしたところから始まるのだ。

次のシーン、僕は映画という非日常の中に入り込んでいたのが、急に現実に引き戻された。
なぜなら、スクリーンに映しだされたものは、僕の生活の場、つまり家の近所のいつも歩いているところだったのだ。
僕の住んでいる場所の近辺でのシーンが20分ほど続いたか。
自分の徒歩圏内の生活の場、つい先週歩いていた場所を東京でスクリーンを通して観るというのは何か不思議な感覚だった。

そして、僕が感じたのは、僕がこれまでずっとロードムービーを移動していく側の立場でしか観ていなかったのだということだ。

移動する主人公にとっては非日常でも、主人公と出合う側は常に日常の中にいるのだ。
僕は「カラカラ」を観ていて、日常の中にいるような感覚を覚えたのだ。
つまり、主人公と出合う側の立場で映画に接したのだ。
これは実に稀な経験だったと思う。
しかも、それが東京という場所で観たからこそ、そのギャップが大きかったのだ。

そして思い出したのが、もう随分古い映画になってしまったが、
「バクダットカフェ」という映画。
この映画は常に日常を生きている人が、非日常を求めて通り過ぎていく人たちと接していく物語だった。
おそらく、それが新鮮だったからあれだけ大ヒットしたのだろう。

最後に「カラカラ」についてもうひとつ。
脚本の細部がちょっと甘い気がした。わざとそうしているのは分かるのだが、もう少し細かい部分を描いた方がよりいい映画になったのではないかという気がした。
あとひとつだけ。工藤夕貴の演技はなかなかよかった。

なかなか映画館に行けなくて……

2013-01-22 16:29:16 | 映画
時間の都合をつけることが出来なくて、「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」を観に行くことが出来なかった。近頃、なかなか映画を見に行けなくて、DVDを借りて観ることが多い。
DVDを借りにTSUTAYAへ行くと、ここ最近観ていない作品が実に多いことに気づく。
で、古いものから新しいものまでランダムに借りて見ているのだが、最近気づいたことがある。
もちろん、映画担当をしていた頃、年間100本近く、それを15年近く続けていたので、単純計算しても1500本もの映画を観たことになる。
それでも、これほどの物語があるのかと思う。

そんな中で思ったのは、物語には事件がつきものであるということ。
つまり、僕らが物語に接しようとする時、そこに何らかの事件を期待するということだ。
ただ、その事件には些細なものから大事件までさまざまだ。

些細な事件を扱ったものがいわゆるミニシアター系などと言われることが多く、しかも”通”風な人が「素晴らしい」などということが多い。
もちろん、些細な事件(=日常の中のちょっとした変化に心を揺らしたり、癒されたりする類のもの)は、パッケージやキャストで分かってしまう。
しかも、どんな結末になるかも大方読めてしまう。

一方、大事件が起こる物語はその”大事件”が昔の映画に比べてより大事件になっていく傾向にあるような気がする。
しかし、今や現実の方に思いもよらないような大事件が起きてしまっているため、物語自体が現実の追いつかなくなってしまっているようだ。
だから、今その手の映画は3Dに走っているように思う。
時折、これを3Dにする必要があるのか? と思う作品があったりもする。

別に最近の作品が駄作だと言っているわけではない。
ただ、作り手が驚かすことにばかり目が行っているのではないと思うのだ。
名作と言われる映画、おそらく後の名作と言われるであろう映画は、
はやり映画の本質を外していない映画のような気がする。
黒沢清監督が言った「映画の本質は見せないこと」。
この一言に集約されるのではないだろうか。
見せないこととは想像させることである。
今の映画は観客から想像させないものが多いような気がしてしまうのだ。

気狂いピエロを観ながら

2012-12-26 09:23:05 | 映画
ワインを飲んで、ちょっとばかりいい気分で『気狂いピエロ』を観た。
ゴダールの映画の特徴として、とにかく出演者がしゃべりまくる。
カップルがしゃべりまくったり、時に観客に話しかけたり。
とにかく文学のこと、音楽のこと、社会のこと、政治のこと。
そこで語られる話題は尽きない。

ゴダールはよく難解だと言われる。
特にフランス語を解さない僕らが見る時、必死で字幕を追いながら見ている。しかし、それでもなお内容が分からないことがある。この場面でなぜこの言葉なのかと。

でも、今回ワインを飲んでいたこともあって、字幕を無理に追わずにボーッと観ていた。
そこでふと気づいたことがあった。
「ゴダールって決して難解じゃないんだ」と。
というよりも、なんとも分かりやすい単純なドラマであるのだと。

ゴダールの特に初期の作品(全部とは言わないが)は、犯罪を犯したもしくは巻き込まれたカップルが、力(警察権力だったり、社会体制だったり、あるいは犯罪組織であったり)から逃げるという物語が多いのだ。
これは、のちのゴダール作品に通じて行くのだが。

そんな単純化して見ると、つまり機関銃のようなセリフを無視して見ると、
構図、色彩の美しさ、俳優たちの動きの美しさ、カメラの動きのムダのなさがとても際立って見えてくる。
そして、俳優たち、特に主演の二人(J.P.ベルモンドとアンナ・カリーナ)の機関銃のような会話は音楽のように聞こえてくる。
それはのちに生まれるポエトリーリーディングのようでもある。
そして、この作品が公開された1965年は、ビートルズが「リボルバー」を発表してサイケデリックの幕を開けようとした年。
『気狂いピエロ』で描かれる色彩と構図は、それを予見しているように思えた。

興味を持った人はゴダール作品については多くの人たちが解説しているので、そんな本でも読んで欲しい。でも、そんな解説がなくとも、この頃までのゴダールは十分に楽しめるはずだ。

久しぶりに見たゴダールは今でも新鮮さを失わない!

2012-12-24 15:59:15 | 映画
ジャン・リュック・ゴダールという名前を知ったのは一体いつのことだっただろうか? それがどうして思い出せない。そもそもヌーヴェル・ヴァーグなんて言葉をいつ覚えたのだろうか?
大げさに言えば、現代の映画はヌーヴェル・ヴァーグから始まったと言っていいほどの大きな波だったはずだ。それまで映画は撮影所が強い力を持っていた。それは映画の撮影は撮影所でするものだったからだ。スタジオにセットを組み立て、女優たちが美しく見えるライティングをし、カメラの位置もある程度固定された、ある意味で完全に作られた世界観をフィルムに収めたのだった。
そんな世界観をぶち破ったのが、ゴダールだった。
カメラをスタジオから外に持ち出し、オールロケで撮影。
それだけで、すでに映画の常識を壊してしまった。
ゴダール以前と以後の映画を見比べてみるとはっきりと分かるだろう。
ゴダールの、特に「勝手にしやがれ」には普通にパリの街を歩いている人たちが写り込んでいる。
実際のところは、秦早穂子先生か山田宏一先生に聞かないと分からないけれども、おそらく無許可で撮影したのではないかとさえ思えて仕方ないのだ。
だから、多分日本などでドラマや映画のロケ撮影などをしていると、時々ちょっと待ってくれと止められることがあるが、「勝手にしやがれ」はそれすらしていないように思えて仕方がない。
そういう意味では、「勝手にしやがれ」はある物語を撮りながらも、当時のパリの活気ある町並みをも同時に撮っていたのでないだろうか。
だからこそ、すでに作られてから五〇年以上も経つのに、活き活きとした新鮮さを失っていないような気がするのだ。

そして、ゴダールの映画といえば欠かせないのがカップルの存在だ。基本的にその主題にあるのがカップルだ。その形はさまざまだが……。
J.P.ベルモンドとジーン・セバーグのカップルは実に洒落ている。とにかくカッコいい。ジーン・セバーグの何気ないボーダーのカットソーとAラインのスカートというコーディーネートは、ファッション雑誌などで幾度と無く出てきたスタリングだし、ベルモンドのタイトなジャケットとパンツはここ最近の流行とマッチしている。わざわざファッション写真を撮るまでもなく、ベルモンドの全身の写真を探して掲載すればスタイリングだけなら見せることが出来る。そのくらい完成されたコーディネートだった。そして、これ以上のカップル像があるだろうかと思わせるゴダールはやっぱりスゴい。

最初の問題。一体いつゴダールを知ったのか?
それがどうして思い出せない。僕の中の最初のゴダール体験(記憶として残っているもの)は「アルファビル」なのだ。
でも、それが最初であるはずがない。いずれにせよ、僕が生まれる前に、ゴダールは映画表現に自由を与えた。
僕が生まれた時にはすでにゴダールのような表現方法はごく普通に受け入れられるようなっていた。
つまり、僕はというより僕らの世代以降の人たちは、すでにゴダールの恩恵を受けていたのだ。知らぬ間に。

そんなわけで、残り少ない今年数日は、1日1本ゴダールを観ることに決めた。今日は「気狂いピエロ」だ!