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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

新宿で暇つぶしに書いた、今の日本のシステム破綻について。

2015-01-30 17:49:07 | 日記


ここ数年、遠く離れた沖縄から東京を眺めていたが、遠くから引いた視線で見ていたせいか、いろいろと感じるものことがあった。
もちろん、ずっと沖縄にいたわけではなく、年に2~3回ほどは帰ってきては1~2週間ほど過ごしたりはしていたのだが、1~2週間では東京のペースに慣れたところで帰るという感じだった。今回は沖縄に越して初めて4週間弱という長期間滞在した。ほぼ毎日都内へ出掛け、何かしらの用事を済ませては帰るという、いわゆる郊外に住んで都内で仕事をしている人たちと同じような生活を送っていた。ただ、違うのは毎日行く場所が違うのと、通勤時間帯に移動していないこと。その点は大きな差だけれど、まぁ東京で働く人たちと同じような生活だったと言っていいと思う。

その4週間弱の間に特別に何かあったわけでもないのだが、遠くから眺めていた東京の姿(それは大きな違和感を伴うものだったのだが)を再確認したと同時に、東京(というよりも日本)の現状を再認識させられた。

東京は良くも悪くも、日本の政治・経済の中心である。それはいくら大阪が都になったとしても変わらないだろう。というのは、東京は世界でも稀に見る構造の首都だからだ。
同じことを、僕は大学生の時に感じた。1ヶ月半ほど、つまりは大学の夏休みにアメリカをバスで旅して思ったのは「東京ってスゴイ」ということだった。後に時代的にバブルの真っ只中だったからそう感じたのだと思い直したのだが、今改めてやっぱり東京はスゴイ街だと思う。

何と言っても、都内に都心的なものが複数存在し、それらはキチンと鉄道網によって繋がっている。江戸のように、都心的なものがそれぞれ何らかの意味を持っていれば理解出来るのだが、特にそれぞれの都心的なものが明確な役割を持っているわけでもなく、特色はあるけれど特別な意味はないという、何とも曖昧な都心的なものがあちこちに点在しているなんていう首都が他にどこにあるだろうか?

例えば、比較的近いと思われる首都はロンドンだけれど、そのロンドンでさえ都心的なものはそれぞれ明確な役割を持っている。

今、この東京の曖昧さが露呈してしまったのではないかと思うのだ。

分かりやすく言えば、丸の内、新宿、渋谷、池袋、上野、銀座……といった昔からの都心と、新しい都心的なものである六本木、台場、汐留などが点在する意味かないのだ。単に集中を避けるためだけに、経済活動の中心である企業が任意に場所を選んでいるという印象がしてならない。
はっきり言えば、そこに計画性が見えないのだ。特に、台場、汐留などは単に空いてしまった土地を埋めるために企業を誘致しただけにしか見えない。もちろん、それぞれの企業は何らかのメリットを感じてそこに移ってきたはずで、おそらく企業として何からの変化はあったのだろうけれども、それで何が変わったのかは外からは見えない。もちろん、見える必要はないのだが。見えないから、ただ空きを埋めただけにしか思えないのだ。

今まではそれでも特に問題もなくやってきた。先に言ったように、キチンと鉄道網で繋がっていて、それはどんどん便利になっているし、街の特色も出てきてはいる。

でも、特色だけでは意味がないのだ。経済的・社会的な役割がその場所ごとに意味付けされなくては。つまりは、必然性ということ。

今は誰もが感じているはずだが、日本の変革期に来ている。曖昧な都心的なもののあり方ではダメなのだ。

あくまでも私見なのだが、もはや日本の全てのシステムは崩壊寸前のように思える。僕が沖縄に居を構える直前にも感じていたが、それは加速していることを感じた。システムの外側はこれまでツギハギをして、時に漏れをふざき、時に溢れるならば壁を高くするなどして何とか繕ってきた。でも、大事な中身は、以前は硬い個体だったものが、融解してしまって液状化してどうにもならなくなっているように思えて仕方ないのだ。
それと同じことが都心的なものからも感じられるのだ。都心的なものという箱の中身がぐちゃぐちゃになっている。曖昧さがより加速していると感じたのだ。首都の構造はその国の構造が反映されているような気がする。あくまでも印象での話だけれど。

そんな融解・液状化は社会システム、経済システム、政治システムすべておいて言える気がする。

別に資本主義社会を辞めろとは言っているわけではない。「新しい資本主義を考えないといけない」と以前北野武ががしゃべっていたらしいが、その通りだと思う。

でも、新しい資本主義とか新しい社会システムなどと言うと、憲法改正などの飛躍した話をする人などもいるが、そんなことではない。もはや中身が液状化したようなシステムなどは捨てて、まったく別の視点から構築する必要があるのかもしれない。


もちろん、それを僕自身が提示出来ればいいのだけど、そんな頭を持っていないのがとても歯がゆい。そんな頭を持っていれば政治家になって、総理大臣でも目指すのだけれど。
正直な話、こんなことを書いても無意味だと分かっている。これを書いたのは新宿で次のアポまで時間があったので、その暇つぶしに書いたもの。この先は後から書いている。アップするのもどうかと思っていたのだけれど、たまたまテレビで見た国会中継の余りの意味のないやりとりを聞いていてアップすることにした。何故あれほど話しが噛み合わないのだろうと不思議に思った。質問になぜ答えることが出来ないのだろうか? あれで国会などやる必要があるのだろうかと思ってしまった。質問を曲解しているのでもなく、無視しているとしか思えなかった。
国会中継なんて普通に働いている人たちは見ることが出来ないと思うけれど、一度見て欲しい。つまらないけど。

アップする前に読み返してみたら、ちょっと論理の破綻があるなと思ったけれど、その場で感じたことなのでそのままアップすることにしました。

郊外

2015-01-17 10:42:23 | 日記


僕が育ったのは埼玉県の東、東京から電車でおよそ1時間半程度のところにある小さな町だった。両親がその場所に一戸建てを購入し、小学2年生の夏に転校してきた。それまでは杉並区松庵という場所に住んでいた。今ではほとんど記憶にはないが、唯一覚えているのは西荻窪駅近くにあったポルノ映画館とヘドロの匂いで臭かった善福寺川、そして夏になるとしょっちゅう発令された光化学スモッグ注意報。子供のたかがしてれいる行動範囲の中は自然は一切なかった。小学生になってからは時折自転車を飛ばして井の頭公園まで行ったが、それは子供にはある種冒険でもあり、特別なことだった。

そんな僕にとって、引っ越した埼玉県のその場所は僕の十年程度の人生の中で、経験したことのない衝撃だらけだった。

うちの家族がそこへ引っ越したのは、東京のベッドタウンとして開発が始まったばかりの頃で、あちこちで新築の一戸建ての建設ラッシュだった。大げさな言い方だが、それこそ毎日のように誰かが引っ越してくるという感じだった。

最初の印象はよく覚えている。
「ここは何だ?」

今なら「田舎町」という言葉が出てきただろうけれど、子供にとっての田舎は「おばあちゃんの住んでいるところ」が田舎であって、田園が広がり、ジャングルのような森があり、少し足を延ばせば大きな川が流れているような場所を何と呼ぶのか知らなかった。
子供の僕にとって川は小さくて臭いものだったし、樹木は山にあるもので、田園は「おばあちゃんの住む田舎」にあるものだった。

しかも、同級生の話している言葉が分からない。当時はまだ方言が存在していた。いくつかの単語はその意味が分からないし、何より語尾につく「べ」の音の違和感はどうしても払拭出来なかった。

それでも、子供の順応は早く、すぐにその環境に馴染んでいった。ただ、方言は一切使わなかった。それが自分の言葉とは思えなかったのだ。だって、国語の授業でそんなの習ったことないし。

そんな田舎町は急激な人口増加とともに変わっていった。まず、方言をほとんど聞かなくなった。むかしからそこで育った子供たちも標準語っぽい言葉に変わっていった。おそらく、人口比がその頃逆転したのだと思う。それまで、小さな農家の多い田舎町はその中だけで生活が成り立っていたはずで、めったに外へ、つまり東京に行く必要もなかったはずだ。だから、多分言葉だけじゃなくて、文化も特有なものがあったはずだ。でも、僕らのように流入してしてきた子供たちはそんな文化などしったこっちゃなく、自分たちの東京での生活を持ち込んだのたと思う。多分、そんな地元の文化の存在も知らなかったと思う。
多分、僕らが流入したことで、この田舎町は確実に変容した。でも、僕らにとってはどんな変容を見せようと、やっぱりそこは《ただの田舎町》だった。成長していくにつれて、その思いは強くなっていった。
すでに、その時に起きていたことだと思うのだが、久しぶりに長期間埼玉県の外れで過ごしていて感じのは、この町は《田舎》ではなく、《THE 郊外》だということだった。

まだ、90年代だったか、すでにゼロ年代に入った頃か?
カルチャーシーンのキーワードが『サバービアン』だった時代があるフランス映画もアメリカのインディベンデント系の映画も、挙って『郊外』を描いた時代があった。でも、そこで描かれた郊外は今の日本の郊外とは違っていた。先の郊外は貧困層の住む世界の空虚感、そこから生まれる独自のカルチャーを持つ街だった。
もしくは、最近の海外ドラマに見られる金持ちの住む場所としての郊外もある。

今の海外の事情はよく分からないけれど、日本の郊外は海外のそれとは確実に違う道を歩んでいる。

そう、あくまでもベッドタウンとしての郊外で、そこに住む人の多くは都市で仕事をするサラリーマンなのだ。

そのサラリーマンたちが現役で都心に通っていた時代は、彼らが東京をそのまま自分たちの住む郊外に持ち込んできていた。だから、そこにあった文化は東京のそれとあまり変わらないものだった気がする。もちろん、そのまますべてを持ち込むことは不可能で、それをその土地に合うように改良したものだった。そのせいで中途半端な都心感を持つ町として成長したのだった。住む場所に困る貧困層が住んだ海外の郊外とはそこが決定的に違う。

でも今、そのサラリーマンたちが現役を退いた。子供たちの多くは独立してそこにそのまま住んでいる人はそう多くはない。

そうなると、今度は町の成長する方向性が大きく変わった。変わらざるを得ない。東京へ通う人が減ったわけだから、東京から持って帰ってくるものも以前と比べて少なくなってきた。少なくなるということは、つまり東京の一部だけをチョイスして持って帰るということだ。そして、人々がチョイスするものは、多くの人が気に入るであろうもの。つまりは一般受けするものだ。一部にしか受けないようなものは町には必要ない。それを求める人は、自ら足を運べばいい。それが出来る距離にあるのだから。
さらに言えば、この町の平均年齢は間違いなく上がっており、以前のように東京へ出るのではなくこの町の中で全てが完結するような町にしていく必要があるというわけだ。

そして、今になって町の“ウリ”を作る必要が出てきた。この町で完結する生活を送るためには、こな町で必要なものがまかなえるのは当然で、それだけで人は満足しないのでプラスαを求めるわけだ。

でも、一度自分たちでぶち壊した文化を復活させるのはムリな話だ。そこで、新しいイベントなどを開催する。でも、そこにもはや文化はなく、無理やりどこかから持ってきたものをアレンジするだけだ。主催者が頑張ってそれを何十年も続けていけば将来新しい文化になるかもしれないが、おそらくそんな覚悟を持っている人などいない。

では、郊外の文化とはなにか?
日本の場合、都市の平均値をそのまま持ち込んで、均質化していくことが『郊外』になることのような気がする。あちこちに同じような店が入ったショッビングモールがあり、全国でほぼ同じものが売っているコンビニがあり、街ゆく若い子たちはそこそこのオシャレな、でも似たような服を着て。
でも、それは人と同じでなければ、というよりはそれしか選択肢がないのだと思う。高校生くらいになれば、まだ都心に買い物に行くことも出来るだろうけれど、中学生までそんなものにしか接していなければ、もはや自分で何かを選択するという能力など育たないだろう。

今、《郊外》で生活するということはそういうことなのだ。
すべてが中途半端で、自分で選択をするという機会も奪われ、その場所特有の文化さえない。
おそらく、ほとんどの《郊外》がそうなんじゃないかと思う。
そして、今日本の多くの人たちは、その《郊外》住んでいる。

一時期、「個性を大切に」とか「個性を活かす」などといったことを重視した教育がなされた。でも、そんな場所で果たして彼からのいう(政治や行政)個性が育まれただろうか?
さらに均一化を進めただけではなかろうか?

今、僕の住む沖縄でも均質化、つまり《郊外化》が進んでいる。
もちろん、沖縄がすぐに僕が育った場所のようになるとはおもわ思わないけれど、いずれは……という危惧は拭えない。
間違いなく、沖縄特有の文化も衰退しているから。
行政が文化保存を言い出したら、すでに終焉に向かっているということなのだから。

壊れたものはもう戻せない。
であるならば、新しい特有の文化を生み出す必要があるのだが、今を見ているとその気配は感じられない。残念なことに。

では、どうするか?
まずは人が考えるということを始める必要がある。
頭を使うこと。
実は、今一番欠けているのはそれではないかと思うのだ。

少々支離滅裂ですが……、というより余談ばかりですが。

2015-01-08 12:24:28 | 日記
時に思想的というか、哲学的というか、そんな話をするのは楽しい。
別にそれは僕の分野ではないし、とりたてて勉強したわけでもない。
学生時代の僕を知っている人には、そんなことを言うなんておそらく想像すら出来ないに違いない。
とにかく学生時代の僕はひどかった。
とにかく遊ぶことしか考えていなかった。
そもそもちゃんと4年で卒業出来たこと自体が奇跡に近い。

僕は本当に学校に行かなかった。
出席を取る必修科目の授業すら行かなかったのだ。
なぜ、卒業出来たかというと、僕の周りの優秀で優しい友人たちが率先して代返をしてくれたからだ。
まだ、携帯電話のない時代。バブルで儲けた人の象徴的アイテムのひとつはベンツかBMWに自動車電話を取り付けることだった時代の話しだ。
実家住まいの女の子と連絡を取るには、父親という大きな壁が立ちはだかっていた時代。
そんな時代に友人に「代返お願い」という連絡などとる術もなく、だからこそみんな真面目に出席していた。そして、僕のようなダメ学生を救ってくれていたのだ。
なんと優しさに満ち溢れた時代だったか?
おそらく、それは余裕があったからだと思う。

僕の学生時代はバブル景気に世の中は賑わい、どこの会社も人手を必要としていた。
今では考えられないことだが、ひとりが10数社の内定を受けていた。
僕は相変わらず遊んでばかりで、就職活動なんかやっていなかった。
ほとんど考えてもいなかった。
大学4年の7月末の時点で何も決まっていなかった。あの当時ではあり得ないことだった。それでも学校にはまったく行かず、就職課がどこにあるのかさえ知らなかった。
あとから聞いた話しだが、僕の優秀な友人たちは「正木とHは大丈夫かな?」と心配してくれていたらしい。
ちなみにH君は僕とは違って1年の半分を山で過ごしていた。遊んでいた僕とは違うが、学校に行かず就職活動もしていなかった点では一緒だった。H君は僕と同じく奇跡的に4年で卒業したが、就職はしないで半年肉体労働をして半年を山で過ごすという暮らしを繰り返し、その後パプアニューギニアへ渡り、現地の人たちと過ごしては帰ってくるという生活を数年送った。後に彼はパプアニューギニアの写真展を開催し、本も出版した。今は妻子を持ち、幸せに暮らしている。

一方僕は、友人たちが心配してくれる以上に父が心配していた。当然のことだ。ある日、見るに見かねたのか、「敏洋、お前1年留学でもするか」と突然言われた。
今思うと行っておけばよかったと思うのだが、僕は平然と「就職するよ」と言ったのを覚えている。一体、その自信はどこから来ていたのか? 自分でも分からない。あの時代、大学4年の7月末と言えば、すでにほとんどの会社の就職試験や面接は終わってしまっていたのだから。

今の仕事をすることになったのも、偶然としか言いようがない。
久しぶりに学校に行った日、一人で学食で(当時の学食は安いのが取り柄だけの食堂だった。今は結構美味しいと聞く)食事をしていたら、友人たちが僕を見つけた。最初は腫れ物にでも触るように接してきたが、どうも僕が全く深刻ではないことに気づいたのか、次第に彼らは説教を始めた。就職課に行ったことがないこと、場所すら知らなかったことに驚くつつ、いろいろなことを教えてくれた。
そして、初めて募集が貼ってある掲示板を見に行った。
当然、もはや知ってる名前の会社はなく、内容的にもピンとくるものはなかった。ざっと見渡して帰ろうかと思った時、ある出版社の募集が出ていた。でも、僕はその出版社を知らなかった。「まぁ、とりあえず電話してみるか」とメモだけ取って、バイトに行く途中にあった公衆電話から電話をした。

結局、その出版社に入ることになったのだが、そもそも何を出している会社かも知らなったので、最終面接の時に家を早く出て、御茶ノ水の丸善で出ている雑誌を片っぱしから立ち読みして行ったのだった。面白いことに、その時に本屋で見つけることが出来ず、どんな雑誌かも知らなかった『MRハイファッション』をやることに。
人生とは面白いものだ。

そんな僕が思想哲学の分野に興味を持ち、やたらとそのジャンルの本を読み漁ったのは、ちょうど『MRハイファッション』の編集をしていた頃だ。以来、とりあえずそのジャンルでも人と話が出来る程度の知識は身に付けた。
当時の『MRハイファッション』は単なるファッション雑誌ではなかった。編集長が偏りはあったもののカルチャーにとても興味を持っていて、好きな分野に関しては実に造詣も深かった。だからだと思うが、自分の興味のない分野についても、文章として面白くないと納得しなかった。そんなこともあって、評論に関しては僕もかなりうるさくなっていたのだ思う。

文章が上手いのと面白いのとは別物だ。
上手い人はたくさんいる。
でも、面白い人となるとなかなか難しい。
そんな人を探して原稿を頼むというのは結構大変だったのを覚えている。


沖縄に移ってから、そんなことはあまり考えなくなっていた。
本人がのほほんと生きているのだから。
でも、時にそんなものを読みたくなる。
そんな時はAmazonでポチッとするだけ。
でも、話をしようと思うと結構大変だ。
普段家で仕事をしているので、誰かに会いに行かないといけない。でも、会いに行ったからといって、そんな話になるとは限らない。それはそれで、その時に合った話題なので十分に満足して帰るのだけれど。

今回、東京出張でいろいろな人と会っている。以前お世話になった書き手の人たちにも時間を作ってもらってお会いしている。6~7年も会っていないだけじゃなく、特に連絡も取っていないにも関わらす、会うと自然と昔と同じようにそのような話題をごく普通に話している。
「正木さんはどう思う」と言われてちゃんと答えられる自分がいたのがとても不思議に思えた。

そんなこれまでお世話になった書き手の方々にも、『THETHE』で本を出してもらうことになった。
これは編集者として、実に楽しみな仕事だ。
どんな原稿が上がってくるのだろうか?
貰った原稿をどう構成していこうか?

編集者冥利に尽きる仕事が目白押しだ。


相変わらず、書き散らしたものに書き加えたので、全体として話が変わってしまったが、これはこのブログの特徴なので……。
そもそも、最初の方を読んだ時、一体何を書こうとしたのか自分でも分からなかったくらいだったので。


これまでとは違う、2015年1月の僕

2015-01-06 09:50:00 | 日記
今まで、1年の抱負など考えたこともなかった。
抱負など持つ必要性を感じたこともなかった。
正月を1年のスタートと考えたこともなければ、「一年の計は元旦にあり」などという格言を信じたこともなかった。
つまり、僕にとってこれまで正月は特別なものではなかった。

でも、今年は2015年の目標というものが昨年の時点ではっきりとしていたこともあって、いつもの正月とは違う感じがしている。
とにかく、抱負というか何をするか、何をしたいかが決まっている。そのすべてをここに書くことは出来ないが、1月4日から6日までの行動を書くことでその一片は伝わるはず。

2014年は『THETHE』創刊、『THETHE Books』設立と僕にとってはとても大きな出来事があった。最初に思い付いたのは6年ほど前のことだった。自由なもの作りをしたいという思いから、電子媒体を使ったコンテンツというものが、ずっと頭の中にあったのだ。当時、電子書籍というものの存在はすでに知っていたけれど、それを作る方法は知らなかった。ウェブマガジンという方法も考えたのだけれど、そこから収益を上げるというイメージが湧かなかった。そこで、僕は電子書籍に絞ってプランを考えていた。とはいえ、それもどれだけの収益を上げられるものかが全くイメージ出来なかった。ただ、将来的に「イケる!」というインスピレーションだけはあった。

最初に考えいたのは全てを自分一人で作るというものだった。とりあえず、そこそこだけど雑誌的な文章くらいは何とか書ける。写真は自信はないけれど、いじれば使えるかも。あとはデザイン、レイアウト、ソースを書くこと、パッケージすること、さまざまなファイル形式について学ぶことが必要だった。

本当はこんな規模でやるならば、2~3年前に作れた。
でも、一応編集者として考えた時に、好きなことは出来てもクオリティーが望めないことは明白だった。そもそも、どこの誰かも分からない人が創刊した雑誌など誰がお金を出して買うか……と。

それからさらに3年寝かせた。その間、僕は電子書籍のことは頭の片隅に置いておくだけで、ただ好きなことだけして遊んでいた。イヤなことは一切せず、ただ自由を満喫して過ごそうと。
この3年間は何ら生産性も創造性もない生活をしていただけだった。それが良かったのだと思う。

これまで、長く雑誌の仕事(主にファッション雑誌)をしてきた僕は、若い頃はさまざまなものを吸収しては、それを自分なりに解釈してアウトプットするという循環が機能していた。
いつの頃からか、吸収するものが減っていきアウトプットとのバランスが崩れていった。新しく何かを考えるのではなくて、過去に自分がやってきたものに何らかの手を加えて別のものに見せるということが多くなってしまった。今思うと、ある制約の中で作らなければいけないので、制約の中に収めるためには中々新たなものに挑戦していくという姿勢を失っていたのかもしれない。

また、カルチャーという膨大な情報に日々晒されながら、それを取捨選択していくのに疲れてしまったというのもある。雑誌は品物なので売れるものを作らなければいけないのは当然なのだが、ある時期に売れるものと、僕がいいと思うものが乖離してしまっていることに気付いた。

いくら僕がいいと思っても、売れなければしょうがない。
売れなければ、それは誰にも届かないのだから。
僕は別の方法を考えた。
そして、到達したのが電子媒体だった。
それが6~7年前のこと。

こうして、僕個人の頭の中でボヤッと浮かんだものが、昨年ようやくカタチになった。

ハッキリ言って、まだ電子書籍に対する反応はそれほどいいものではない。
よく言われるのは、紙のような広がりや奥行きがないということ。
特に写真などに関して、そういう意見を聞く。
でも、それは違う。
多分、そう言ってる人たちは、ウェブサイトの写真を見てそう言ってるのだと思う。
ウェブサイトの場合、出来る限りデータを軽くするためにかなり小さなデータを使っている。
さらに言えば、多くのウェブサイト(すべてではない)はカメラマンに支払うお金がないので、ちょっと撮れる人がいればいいと、簡単に撮影をしてしまう。後で加工すればいいやという意識がどこかにある。

でも、一度『THETHE』を見ていただきたい。
写真に紙では表現出来ない奥行きも広がりもある。

今年の最初に会った、僕がファッション雑誌をやっていた頃にとてもお世話になったスタイリストの方に見てもらったら、紙よりもいいと言ってくれた。ハッキリとモノを言う人なので、僕はその言葉をそのまま受け取った。

僕はそんな彼(僕よりも年上なので失礼な呼び方ですが)の本を作ろうと思っている。スタイリストという仕事をしている人の旅。それはロケだったり、コレクションだったり、若い頃の留学の話だったり……。写真はたくさん撮ってあり、なかなかいい写真が揃っている。でも、写真だけだと物足りないので、頑張って原稿を書いてもらうことに。
ファッション雑誌の編集者とスタイリストという関係ではなく、編集者と著者という関係で仕事をすることに、新たな楽しみを感じている。

翌日は長く連載をしていただいていた映画評論家と会った。この方と会うのは実に7年ぶり。その間、一度も連絡を取っていなかった。でも、会った瞬間に7年という歳月がなかったかのように話しが弾んだ。僕は、映画という範疇を超えて一番信頼している評論家で、今は京都の美大で映画を教えている。今の若い学生と日々接しながら、連載のために東京に戻っては映画を見て原稿を書くという生活を送っているというが、今の映画、文化、若い人たちの思考のあり方についての考えがほぼ一致していた。これは僕に自信を与えてくれた。沖縄という中央のカルチャーから遠ざかった場所に住みながらも、まだ自分はズレていないなと。

彼には過去のものをまとめるのではなく、書き下ろしをお願いした。これまでの『THETHE』にはなかった毛色のものだが、間違いなく彼の思考の仕方は僕に多大な影響を与えているので、どんなものが上がってくるかが楽しみだ。上がってきたものに、電子書籍ならではの味付けをしていこうと思っている。昨日話したテーマ(変わる可能性はあるが)、電子書籍だから出来ることがたくさんあった。その分僕が大変なのだが……。
これまた楽しみだ。
ただ、残念ながら編集者の観点から言えば、それほど売れる見込みはない。それでも、やるべき仕事なのだ。はっきり言うと僕が一番読みたがっている本なのだ。

今日6日は昨年に話していた写真集の実作業に入る。僕が埼玉に滞在中に出来る限りのことをやって、早々に出版したいと思っている。


これからほぼ毎日のように打ち合わせ、挨拶、依頼の日々が続く。同時に『THETHE3』の準備にも入らないといけない。

東京って、やっぱり仕事する場所なんだなぁと改めて思っている。まぁ、そのために今回滞在を長くしたのだから、仕方ないと言えば仕方のないことなのだが……。

服のこと

2014-12-26 15:14:03 | 日記
年末から1月下旬まで埼玉に帰るのだが、二人と一匹なのと寒さ対策のために結構な荷物になってしまった。
だから、荷物は送ってしまったのだけれど、その時自分のワードローブを改めて見て気づいたことがあった。
僕の持っている服のほとんどがフード付きだということ。東京で着ていた服はほとんどを処分してしまっていたので、それらは新たに買ったもの。つまり、僕はフード付きのものしか買っていないということになる。まぁ、パーカーということなのだが。

荷物を詰めている時、てっきり僕の持っているダウンはフードは取り外し出来るものだと思っていた。でも、よくよく見てみると外せない。
中に着ようと思って詰めた服はほとんどパーカー。
「えっ! フード2枚!」
「さすがにそれはないわ」と思ってダウンを買おうかと思ったのだけれど、元々Patagoniaの薄いダウンを買うつもりだったので、沖縄では手に入るか分からないし、ネットでは間に合わない。じゃあ、ユニクロでと思ったけれどそのためだけに買うのはさすがにもったいない。
ということで、「ないわ」というコーディネートで行くことに決めた。

沖縄の場合(僕だけかもしれないけれど)パーカーが一番重宝する。
ちょっと寒いなと思ったらフードかぶってしまうし、雨が降ればフードでしのぐ。
そんな羽織りものが楽なので自然とパーカーだらけになっていた。
夏用の長袖もパーカー。
最近はあまり帽子をかぶらなくなったこともあるかもしれない。
よっぽど陽射しが強いか、相当寒いか。
そうでなければ、帽子をかぶらない。
埼玉、東京ではさすがに、ニットキャップをかぶっているとは思うが。

東京でお会いする方々、変な格好でも見て見ぬふりしといてください。
もう、関東の冬対応の服は持っていないので……。

東京に住んでいた頃、あれだけ好きだったニットは今ではコムデギャルソンの薄手のものが1枚手元にあるだけ。他にはサーフブランドとスポーツブランドのものTシャツやスウェットくらい。
ユルユル、ズルズル、ダラダラな服しかない。
ワンコーディネートくらいはマシなのと思ったけれど、どう探してもジーンズしかなかった。つまりは、ジーンズすらはいていないということ。
もう服いらないとか言って全部処分するじゃなかったな。少しくらい残しとけば良かったか……。
ま、いいか。寒さしのげれば。