毎月行われている、古文書サークル『温故の会』の例会。
Abe氏が年に2回ほど解読する大山郷政録は、毎回楽しみにしている。
しかし、物知らずの私には何を言っているのかチンプンカンプンなのである。
まず、米出新田村がどこなのか? なぜ捨水貰いの願い立てなのか? 林崎村に対してなぜそんなに気を使うのか? Abe氏が朗読する郷政録(古文書)と、その解読文を見比べるのだが、字面を追うだけでまったく繋がっていかないのである。あぁぁ……。
やはり自分でもう一度、自分のペースで原文を解読しながら筆記し、理解していかないと繋がっていかない。回転がにぶいのである、ハァ。
林崎村といえば林崎堰。林崎堰といえば、私の町を流れる青龍寺川の西大海橋・佐文屋さん裏手付近から分水していたはず……と、早速、『青龍寺川史』を開いてみる。
そこには、「明和年間(1764〜)に水不足が極度に深刻化するにともない、合理的な分水方法や用水確保を藩に要求する農民の運動が急速に高まっていった…(中略)、この時期における林崎堰の捨水利用をめぐる藩と農民との論争を中心にして、捨水に関する堰組の規制について見ることにしよう」(P128)などと記されている。それに大山川左岸と右岸との水問題に加え、天領と庄内藩領の農民間の諍いもあるようだ。
「筧貰取〜」の「筧」とは、大山川右岸(林崎村)側から左岸(米出新田村)側に、川の上に掛け渡した木の樋のことだったのかと漸くイメージを掴み、当時の模様を知る。
おぉぉ……、面白い、実に面白い‼
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