坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

田中正造の足跡をたどる旅 初日

2024-05-30 21:40:58 | 古文書、郷土史他
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」

2014年11月に足尾銅山を訪ねて以来、10年ぶりに栃木県に足を踏み入れた。この度は、ワッパ騒動義民顕彰会々員の皆さんと「田中正造の足跡をたどる旅」と銘打った研修旅行で、田中正造の事績と足尾鉱毒事件を深く識る、本当に有意義な旅となった。
案内をしてくれた田中正造記念館理事の島野薫氏には、二日間に渡って大変お世話になりました。詳しい解説はもとより、天候への配慮など心遣いまでいただき心より感謝を申しあげます。ありがとうございました。


田中正造生家

万葉の安蘇の河原と赤見の山なみを背景に、旗川、才川のせせらぎの聞こえる所に田中正造の古里[ふるさと]「小中[こなか]村」はあります。私たちはこの「小中村」(現在:佐野市小中町)に正造が生まれ、カツ夫人が共に生活していたことを大変誇りに思います。また、正造や妹リンを養育した、ご両親にも隣人としての温もりと親しみを感じます。(田中正造旧宅案内看板より抜粋)



この「愛」の文字は、川俣事件で負傷した山崎銈次郎氏宛書簡に同封されていた田中翁直筆の複製。田中翁の門人・嶋田宗三は「田中翁の全人格を一語で表せば愛」と述べていた。(案内プレートより)


墓碑拓本

墓碑の題字「義人田中正造君碑」は、翁の親友で神奈川県選出の代議士島田三郎の書である。「冬ながら啼[なか] ねバならぬほととぎす 雲井の月の定めなけれバ」の短歌は、翁が明治32年冬の思いをほととぎすに託して詠んだもの。墓碑はその自筆の書を刻んである。(案内プレートより抜粋)


佐野市郷土博物館田中翁銅像前にて


田中正造の日記帳

「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」(田中正造が1912(明治45)年6月17日の日記に書いた言葉)


飢て病む民の家塚もろともに
  岸も噛ミ去る毒の荒浪
     壬寅秋(明治35年秋) 正造


谷中村について

谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外ではなく農作物の立ち枯れや魚の斃死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因を洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水池となることにより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他地へ集団移住を開始し、同年7月に谷中村は藤岡町合併させられて法律的には抹殺され、事実上の廃村となった。(案内看板より)


谷中村役場跡にて


庭田家・田中正造終焉の家

栃木県佐野市下羽田町の庭田家は、田中が息を引き取った場所だ。病床となった8畳間が今も残されている。田中は支援者らを回っていた途中の1913年8月2日、庭田家に着くと縁側から転がり込むように倒れたという。8畳間で妻や支援者らの看病を受けたが、34日目の9月4日に亡くなった。
闘病中は面会謝絶だったが、見舞客が次々と訪れた。NPO法人「足尾鉱毒事件田中正造記念館」の島野薫事務局長によると、庭田家では見舞いの人たちをおにぎりやみそ汁でもてなし、保存していた3年分のみそ、しょうゆを使い果たしたという。庭田家は没後100年の2013年9月、佐野市の史跡に指定された。部屋に「辛酸亦入佳境」と書かれた田中の書などがある。(朝日新聞D.2023.9.21付より)


辛酸亦入佳境
(庭田隆次蔵)


村々のさびしき家の軒下にも
 靴音高くみつぎ取り来て
(1908年〈明治41〉3月 庭田隆次蔵)


館林市指定史跡 田中正造の墓および救現堂[ぐげんどう]

  指定年月日:昭和48年(1973)4月1日
  所   在:館林市下早川田町1896番地 雲龍寺
  時   代:近現代
この墓は、足尾鉱毒問題にその生涯を捧げた田中正造の墓です。
足尾鉱毒事件は、明治の富国強兵政策の中で、足尾銅山から廃棄された鉱毒が渡良瀬川に流出し下流の耕地を荒廃させたため、農民らが損害賠償と営業停止を要求する大衆運動を起こした事件です。
田中正造は、天保12年(1841)下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれました。鉱毒問題に取り組んだ中心的な存在で、被害民の救済にその一生を捧げました。また、雲龍寺は鉱毒被災地のほぼ中央にある寺で、明治29年(1896)の大水害を契機に「足尾銅山鉱業停止請願事務所」が設立され、正造を始めとする被害民たちの運動の拠点となりました。
大正2年(1913)、正造は栃木県足利郡吾妻村(現佐野市下羽田町)庭田清四郎宅で73歳で没しました。仮葬儀は雲龍寺で、本葬儀は惣宗寺(元佐野市金井上町)で行われましたが、その後、遺骨は被害民によってゆかりの地に分骨されました。
この墓は、正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3mあり、首部の細い特徴のある宝塔です。平成6年(1994)の解体修理の際、基壇の最下段中央部に骨壷が確認されました。
墓の右手に建つ「救現堂」には、正造が祀られています。「救現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。日本の近現代史の一端を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
館林市教育委員会(案内看板より)



毒流すわるさ 止めずバ我やまず
渡良瀬利根に 地を流すとも


ホテルサンルート佐野 懇親会にて
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