鶴岡市郷土資料館 令和6年度郷土史講座
『戦国時代の地域権力論
-出羽庄内・大宝寺義興の事例から-』
講師:東京大学史料編纂所助教 畑山周平氏
郷土史講座は図書館2階講座室で行われ、会場は満席状態で次回開催の駐車場利用の指示が出されたほど人気を博した。
講演の趣旨:北目菅原家文書(遊佐町)に残された
判物から、出羽庄内の領主である
大宝寺義興の事例として、
戦国時代の領主に関する一般的な理解を考え直す(再考を迫る)手がかりを与えてくれるのではないか。
「
判物」:戦国時代特有の、領域的・公的な支配をする領主(地域権力)は、判物という証文を発行して支配を行なったと考えられている。
『判物』 島津貴久知行充行状
【原文】:薩摩国鹿児嶋之内犬迫名之事、依奉公、所充行成、早任此旨、可被知行之状如件
永禄弍年己未弍月廿三日 貴久(花押)
入来院加賀守殿
【読み下し】:薩摩国鹿児嶋のうち犬迫名のこと、奉仕により、充行
[アテガ]うところなり、早くこの旨に任せ、知行せらるべきの状、くだんのごとし

判物の特徴:①領主が自ら署名、領主のサイン(花押・書判
[カキハン])があるので判物と呼ばれる。②内容は権益付与。③年号を明記、証拠文書の一般的特徴。④本文の終わり(書止文言)が「状如件」など、上位下達の形式になっている。
◯自分がその地域一帯の上位者であり、諸権益を差配できることを表明するような形式。
現在、「戦国時代特有の領主は、判物を発行して支配を行った」という理解を前提にして、残されている判物
[ハンモツ]から、その領主の権限が及ぶ範囲を考えようとする研究や、判物を出しているかどうかによって、戦国期特有の領主かどうかを判定しようとする研究がなされている。
「
戦国時代の領主に関する一般的な理解」とは、戦後期時代になると、領主のあり方がそれまでと違うものになる。=
戦国時代特有の領主が各地にあらわれてくる。
◯彼らが支配にあたって発行した文書として、判物という証文が注目される。
「
戦国時代特有の領主」 地域一帯を支配(領域支配)。
※こうした地域権力のうち、数郡〜一国以上を支配する者=戦国大名。数郷〜一郡程度を支配する者=戦国領主・国衆などと呼ばれている。

北目菅原家文書 土佐林甲斐入道→義興家臣の書状
「
大宝寺義興関係文書の事例」 一般的理解として戦国時代になると、それまでとは違う、領域的・公的な支配をする領主(地域権力)が出現した。支配にあたって発行した文書として注目されているのが判物。
行間に書かれた追伸部分(赤枠):返す返す、下当・下野沢と山の公事、北目の者ども申し勝ち候ことに候、義興様において御失念あるまじきよし、仰せ出され候ところに、重ねて御判形のこと、くどく申し上げ候儀は、いかがと存じ候。よくよく御催促候べく候、かしく。
解釈:山の権益をめぐる、北目村vs下当村・下野沢村の裁判があり、北目が勝訴した。(以下略)
本文より(青枠):上意より御判形のこと、今に望みのよし申し候や、(以下):それは前代より、か様の儀については、御判を下され候ことはこれなく候あいだ、下されまじく候、………
解釈:北目村が勝訴したことを記した大宝寺義興の判物を欲しがっている。(以下、土佐林甲斐入道の見解として):前の時代から、この様な案件については、判物が発行されることはないので、今回も発行されることはないだろう、と記している。
◯「公的な支配に関わる権限を行使したが、判物は出さなかった事例」と評価できる。

古代・中世史料 上巻下巻[荘内史料集]

荘内史料集・上巻に載っている写真と翻刻
まとめ
北目菅原家文書に残された大宝寺義興の事例から、「領域的・公的な支配を行っているが、判物は出さなかった地域権力」の存在が判明。=戦国時代の地域権力全般に関わる知見。
同じ権限行為でも、どういう時に判物が出され、どういう時には出されないのか、判物発行の理由追求が新たな研究課題として浮上。
大宝寺義興の場合、敵対勢力打倒を目指し、自らのもとに諸勢力を引き付けようとする意図から、判物を発行していたようだ。
判物から、抗争に対処していこうとする義興の意志(戦国争乱に対処していこうとする地域権力の意志)を読み取ることが可能ではないか。
わざわざ文書を出すことには、物理的に分解できない一枚の紙に書くことにより、義興への忠誠と権益付与とが一体不可分であることを示す意図があったのかも。
講演後の質問コーナーでも、興味深い話を聞くことができた。
質問1.質問者:O野寺氏
Q. 民衆あるいは各地域の小さな村の権力などの事情による要求から判物を出させることがあったとのこと。今回は遊佐町北目の民衆や、山論の状況などを考えるときに、なぜ判物が必要となったのか先生のご意見をきかせてもらいたい。
A. 一つ考えられるのは、最近の研究状況の中で、判物とは限らず中世において文書が出されることは、基本的には受益者が要求することで出されたと考えるのが最近のトレンドである。何らかの文書が残っていたら基本的に受取人側に注目する。受取人の要求に対し、権力者側が腑に落ちたことによってこの文書が出されたのではないかと考える。北目の文書が出されているのは、おそらく北目側から判物が欲しいという要求があったことに間違いない。ただ一方で差出人の意というのも申し上げたかったので少しズレた解釈になってしまった。
今回、北目は大宝寺側に付いて判物を出してもらっている。一方下当・下野沢は東禅寺側に付いている。山論での北目vs下当・下野沢と、大宝寺義興vs東禅寺氏永との争いという状況から危険ではあるが態度ははっきりさせる必要があった。北目村側にとしては大宝寺に賭けた。逆に下当村・下野沢村側は東禅寺に賭けた。そういうふうに考えると、山論が行われている状況の中で、このような判物が残ったのではないか。
質問2.質問者:遠D氏
Q .戦国時代の領主に対して農民は、いざという時には武士団に付いて戦に行かなければならない存在だったのか。また職人や町人等と大宝寺氏など領主との関係は、どの様な形で存在していたのか。
また、領主は特定の武士団を抱えていて普段から戦などの準備をしていたのか
A.この時代を検証できる資料が少なく、確かな資料からの農民や職人の動きなどは、なかなか見えてこないが、この時代の農民とか職人は割と権力と結び付いていて、なんらかの権益を得ているのも結構多くいた。村の侍といって村にいながら領主との主従関係を結び、事が起きれば出陣する者もいた。しかし、江戸時代になって兵農分離が行われたと言われるが、すでに中世社会でも農民が言われなく軍事動員されるのは、かなり特殊な事情を除いてなかったし、主従関係のない農民などは後方支援として物を運んだりする役割しか与えられなかった。農民がどうかでなく、領主と主従関係を結んでいるかどうかで見るとわかりやすいと思う。職人も同様で戦場に動員されることはなかったが、戦に使うものを生産し、領主に納めることを条件に、普段の役や税をある程度免除してもらうということがあったようだ。
特定の武士団について、この戦国時代特有の領主とは、鎌倉時代の地頭クラス上がりが多く、自分の手下となる武士団を一定数抱えていたと想定している。
質問3.質問者:S原氏
Q. 今日は大変貴重なお話ありがとうございます。私も『戦国期庄内における村落間相論』を書いた時に、他の事例では見たことがないすごく面白い事例だと思いました。これまでほとんど庄内や出羽の国の史料しか検討してこなかったので、全国的にどうなのだろうと思っていたところ、このような形で他の事例とか広い視野から史料を位置付けていただきました。今後も何かの形で発表していただけると庄内の戦国史がもっと豊かになると思うので、是非ご紹介いただければありがたいなと思います。
さて感想として、大宝寺義興側と東禅寺氏永側との対立が天正12年の冬頃からありました。もともと土佐林甲斐入道の書状では、大宝寺氏権力の中で先代の義氏の時代までは判物を出さなかったので、今回も出さなくても良いと書かれていたわけですが結局は出すことになった。私はこれを、村の方から判物を出してくれと要求され、大宝寺氏も権力的だった義氏時代ではなく、東禅寺氏との二つの権力が並び立つという不安定な権力争い中での消極的発給という形として位置付けたところを「もっと積極的として見ていかないか?」ということが今回のお話だったのかなと思うのですが、大宝寺氏と東禅寺氏が軍事的に対立している中で出された判物ということで、史料の中に「稼ぎ」とあるように、「(北目村の者の)軍事行動があったから今回判物を出します」という表現もあるので、消極的な意味合いと積極的意味合いの両方あるのではないかと講義を聴いて思いました。いずれにせよ、とても面白い事例であることには間違いないと思うので、またいろいろ教えていただければありがたいと思います。
ひとつ質問は、今回、土佐林甲斐入道が書いた書状は12月1日付で、大宝寺義興に「判物は出す必要はありませんよ」と言っている。けれども11月18日の日付で、大宝寺義興が判物を出している。これがもし天正12年の同じ年だとしたら、遡って大宝寺義興が判物を出しているということになる。このように遡る日付の事例というものが戦国時代にはあったのか? あるいは大宝寺氏と東禅寺氏との戦闘が激化していく中で、翌年に出された書状と考えたほうがいいのか。このように遡った日付の書状が出された事例が他にもあるのか教えて欲しい。
A .この日付の件には、あえて触れなかったのですが怒らないで聞いて欲しい。日付を遡って発給する事例は、私的にはあると思っています。しかし余程のことがない限り遡り発給はないと思っていて一つ考えているのが、12月1日付けの土佐林甲斐入道の書状を天正11年とする説です。読み下し分で「今度御稼ぎゆえ、大切の公事ども相調い候こと、我々儀も貴所よりの御使を申し候状、満足せしめ候」」の「御稼ぎ」の部分を軍事行動と読む説ですが、これは単純に裁判において宛所の人間が色々と取り計らったことだと思っていて、宛所が留守某(遠江守)という人なのですが、解釈を「北目の者どものことについて、この度あなたが裁判にあたっていろいろとご尽力されて大切な裁判に勝ったことは、私もあなたからの訴えの仲介者を務めたので、非常に喜んでいます」と、この部分を軍事行動ととらなくても良いと解釈すると、天正12年冬からの戦争と結びつける必要が無くなり、この文書を天正11年に置いてもいいと考えます。しかしそうすると懸案事項として、文書冒頭のところで、「義興様」と記されていますが、彼は当初は「義高」を名乗っていたと言われ、これを11年に置くと「義興」の名前が初見となり、天正11年12月以降に「義高」という名前が確認されると私の説は全部撤回することになりますが、私としては遡り発給を考える前にこの天正11年説を考えたいと思っています。なお繰り返しになりますが、義興の名前の件が崩れたらすべて撤回します。