『板敷山』 古来、山形県は最上川舟運と北前船・西廻船により大阪との繋がりが強かった。然し維新後、東京との繋がりを進める新政府は陸路の開拓を最優先した。明治11年、県令三島通庸は陸奥の道路開拓に邁進し、三島による現国道47号線が開通するまでは実は道は無く、あっても最上川の増水時や清川ダシと言われる川下からの濃霧のあるときには通れない獣道程度であった。一般的には6km南を通る板敷越えの山道を通らなければならなく、その間15kmは極めて難儀で急峻な道で、敷いていた板を立てにした様な険阻な道だったことから板敷山と呼ばれた。 (大墓公 阿弖流為HPより)
庄内町まるごとトレッキング2024『板敷山古道コース』に参加した。サブタイトルに「最上川水運の代替道を駆ける」と謳っているように天候や季節によって最上川の舟を利用出来ないとき、どんな道を歩いたのか、殿様など昔の人が歩いた陸路「板敷越道」とは……と、 そんな好奇心から参加した。
7:15集合・受付 会費2500円(風車市場商品券500円分・町湯入浴券含む)の支払いを済ませ、長南先生に挨拶する。
8:00トレッキング開始 板敷橋を渡ったところで水害工事のため下車後、出発。
いたるところに7月の水害の傷跡が残っている。
ここはモタシの宝庫か。
明治11年、国道47号が開通するまでは生活道。
森藤右衛門も歩いたか? 茶屋跡もあるらしい。
庄内町と戸沢村の境界付近から見えた鳥海山
昼食後の記念撮影
参加者27人、指導者3人、事務局1人
未整備で複雑な地形の中のブナ林を歩く
この後、マーキングテープ頼りの笹薮に突入!
「落武者の敗走みでだの」と、誰かが呟いた
見事なサルノコシカケを慎重に採取中
神代杉(戸沢村の木)
庄内町まるごとトレッキング2024『板敷山古道コース』に参加した。サブタイトルに「最上川水運の代替道を駆ける」と謳っているように天候や季節によって最上川の舟を利用出来ないとき、どんな道を歩いたのか、殿様など昔の人が歩いた陸路「板敷越道」とは……と、 そんな好奇心から参加した。
7:15集合・受付 会費2500円(風車市場商品券500円分・町湯入浴券含む)の支払いを済ませ、長南先生に挨拶する。
8:00トレッキング開始 板敷橋を渡ったところで水害工事のため下車後、出発。
いたるところに7月の水害の傷跡が残っている。
ここはモタシの宝庫か。
明治11年、国道47号が開通するまでは生活道。
森藤右衛門も歩いたか? 茶屋跡もあるらしい。
庄内町と戸沢村の境界付近から見えた鳥海山
昼食後の記念撮影
参加者27人、指導者3人、事務局1人
未整備で複雑な地形の中のブナ林を歩く
この後、マーキングテープ頼りの笹薮に突入!
「落武者の敗走みでだの」と、誰かが呟いた
見事なサルノコシカケを慎重に採取中
神代杉(戸沢村の木)
昨日(10月20日)、温故の会の例会が行われ、発表者は今年入会した佐藤氏。幅広く郷土史・地域史を勉強している氏が題材に選んだのは、大泉叢誌巻53から「難波の梅」という実際の事件を講談風に七五調で書かれた古文書だった。さすがに時間が無い中、くずし字を解読して解説するのは大変だったのでしょう。平成31年に翻刻出版された『大泉叢誌』の解題と解読を読みながらの発表だった。
しかし相変わらずの物知らずの私には、一度にスラスラと読まれただけでは、何のことやらさっぱり分からないのである。今回も宿題を貰った気分で、自宅で復習してみた。
賈[あきんど]甚縦[ほしいまま](ニシテ)寵(ス)二美人(ヲ)一。農三発(シテ)レ怒(ヲ)殺(ス)二麗婦(ヲ)一
など、二三度読み返して、やっと甚は商人・甚之助のこと、三は農夫・三郎治のことだと気付くのである。
それでも読み進むと、百人一首競技かるたで最初に詠まれる冒頭の和歌が浮かび、なぜタイトルが「難波の梅」なのかを知る。
文中、区切りのよい七五調ではあるが、ことわざ、慣用句、略字に難漢字ありと、私にはスラスラとは読めない。江戸人の教養の高さに圧倒されながらも、ワクワクと読み込んでいる。還暦を過ぎてから少し賢くなった気分が楽しいのである。
解題:『難波の梅』 「自娯抄」(「大泉叢誌」巻82所収)の享和2年(1802)7月20日条に、矢引坂で赤川村の三郎治が一日市町の仕立屋甚之助夫婦を待ち伏せして、湯田川の遊女であった妻を殺害した事件が記されているが、これはそれを脚色した語り物。と記されている。
まもなく、ウイリアム W ケリー氏(イエール大学名誉教授)の著書『19世紀日本における服従と抵抗』の日本語翻訳版が出版される。「19世紀の日本~」と謳っているが、19世紀の庄内について書かれた書物である。もちろんワッパ騒動についても論考している。
14:00から出版記念講演会を、こぴあ2階ホールで開催し、その後祝賀会を行う予定です。興味のある方、是非おいでください。
14:00から出版記念講演会を、こぴあ2階ホールで開催し、その後祝賀会を行う予定です。興味のある方、是非おいでください。
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」
2014年11月に足尾銅山を訪ねて以来、10年ぶりに栃木県に足を踏み入れた。この度は、ワッパ騒動義民顕彰会々員の皆さんと「田中正造の足跡をたどる旅」と銘打った研修旅行で、田中正造の事績と足尾鉱毒事件を深く識る、本当に有意義な旅となった。
案内をしてくれた田中正造記念館理事の島野薫氏には、二日間に渡って大変お世話になりました。詳しい解説はもとより、天候への配慮など心遣いまでいただき心より感謝を申しあげます。ありがとうございました。
田中正造生家
万葉の安蘇の河原と赤見の山なみを背景に、旗川、才川のせせらぎの聞こえる所に田中正造の古里[ふるさと]「小中[こなか]村」はあります。私たちはこの「小中村」(現在:佐野市小中町)に正造が生まれ、カツ夫人が共に生活していたことを大変誇りに思います。また、正造や妹リンを養育した、ご両親にも隣人としての温もりと親しみを感じます。(田中正造旧宅案内看板より抜粋)
愛
この「愛」の文字は、川俣事件で負傷した山崎銈次郎氏宛書簡に同封されていた田中翁直筆の複製。田中翁の門人・嶋田宗三は「田中翁の全人格を一語で表せば愛」と述べていた。(案内プレートより)
墓碑拓本
墓碑の題字「義人田中正造君碑」は、翁の親友で神奈川県選出の代議士島田三郎の書である。「冬ながら啼[なか] ねバならぬほととぎす 雲井の月の定めなけれバ」の短歌は、翁が明治32年冬の思いをほととぎすに託して詠んだもの。墓碑はその自筆の書を刻んである。(案内プレートより抜粋)
佐野市郷土博物館田中翁銅像前にて
田中正造の日記帳
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」(田中正造が1912(明治45)年6月17日の日記に書いた言葉)
飢て病む民の家塚もろともに
岸も噛ミ去る毒の荒浪
壬寅秋(明治35年秋) 正造
谷中村について
谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外ではなく農作物の立ち枯れや魚の斃死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因を洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水池となることにより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他地へ集団移住を開始し、同年7月に谷中村は藤岡町合併させられて法律的には抹殺され、事実上の廃村となった。(案内看板より)
谷中村役場跡にて
庭田家・田中正造終焉の家
栃木県佐野市下羽田町の庭田家は、田中が息を引き取った場所だ。病床となった8畳間が今も残されている。田中は支援者らを回っていた途中の1913年8月2日、庭田家に着くと縁側から転がり込むように倒れたという。8畳間で妻や支援者らの看病を受けたが、34日目の9月4日に亡くなった。
闘病中は面会謝絶だったが、見舞客が次々と訪れた。NPO法人「足尾鉱毒事件田中正造記念館」の島野薫事務局長によると、庭田家では見舞いの人たちをおにぎりやみそ汁でもてなし、保存していた3年分のみそ、しょうゆを使い果たしたという。庭田家は没後100年の2013年9月、佐野市の史跡に指定された。部屋に「辛酸亦入佳境」と書かれた田中の書などがある。(朝日新聞D.2023.9.21付より)
辛酸亦入佳境
(庭田隆次蔵)
村々のさびしき家の軒下にも
靴音高くみつぎ取り来て
(1908年〈明治41〉3月 庭田隆次蔵)
館林市指定史跡 田中正造の墓および救現堂[ぐげんどう]
指定年月日:昭和48年(1973)4月1日
所 在:館林市下早川田町1896番地 雲龍寺
時 代:近現代
この墓は、足尾鉱毒問題にその生涯を捧げた田中正造の墓です。
足尾鉱毒事件は、明治の富国強兵政策の中で、足尾銅山から廃棄された鉱毒が渡良瀬川に流出し下流の耕地を荒廃させたため、農民らが損害賠償と営業停止を要求する大衆運動を起こした事件です。
田中正造は、天保12年(1841)下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれました。鉱毒問題に取り組んだ中心的な存在で、被害民の救済にその一生を捧げました。また、雲龍寺は鉱毒被災地のほぼ中央にある寺で、明治29年(1896)の大水害を契機に「足尾銅山鉱業停止請願事務所」が設立され、正造を始めとする被害民たちの運動の拠点となりました。
大正2年(1913)、正造は栃木県足利郡吾妻村(現佐野市下羽田町)庭田清四郎宅で73歳で没しました。仮葬儀は雲龍寺で、本葬儀は惣宗寺(元佐野市金井上町)で行われましたが、その後、遺骨は被害民によってゆかりの地に分骨されました。
この墓は、正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3mあり、首部の細い特徴のある宝塔です。平成6年(1994)の解体修理の際、基壇の最下段中央部に骨壷が確認されました。
墓の右手に建つ「救現堂」には、正造が祀られています。「救現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。日本の近現代史の一端を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
毒流すわるさ 止めずバ我やまず
渡良瀬利根に 地を流すとも
ホテルサンルート佐野 懇親会にて
2014年11月に足尾銅山を訪ねて以来、10年ぶりに栃木県に足を踏み入れた。この度は、ワッパ騒動義民顕彰会々員の皆さんと「田中正造の足跡をたどる旅」と銘打った研修旅行で、田中正造の事績と足尾鉱毒事件を深く識る、本当に有意義な旅となった。
案内をしてくれた田中正造記念館理事の島野薫氏には、二日間に渡って大変お世話になりました。詳しい解説はもとより、天候への配慮など心遣いまでいただき心より感謝を申しあげます。ありがとうございました。
田中正造生家
万葉の安蘇の河原と赤見の山なみを背景に、旗川、才川のせせらぎの聞こえる所に田中正造の古里[ふるさと]「小中[こなか]村」はあります。私たちはこの「小中村」(現在:佐野市小中町)に正造が生まれ、カツ夫人が共に生活していたことを大変誇りに思います。また、正造や妹リンを養育した、ご両親にも隣人としての温もりと親しみを感じます。(田中正造旧宅案内看板より抜粋)
愛
この「愛」の文字は、川俣事件で負傷した山崎銈次郎氏宛書簡に同封されていた田中翁直筆の複製。田中翁の門人・嶋田宗三は「田中翁の全人格を一語で表せば愛」と述べていた。(案内プレートより)
墓碑拓本
墓碑の題字「義人田中正造君碑」は、翁の親友で神奈川県選出の代議士島田三郎の書である。「冬ながら啼[なか] ねバならぬほととぎす 雲井の月の定めなけれバ」の短歌は、翁が明治32年冬の思いをほととぎすに託して詠んだもの。墓碑はその自筆の書を刻んである。(案内プレートより抜粋)
佐野市郷土博物館田中翁銅像前にて
田中正造の日記帳
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」(田中正造が1912(明治45)年6月17日の日記に書いた言葉)
飢て病む民の家塚もろともに
岸も噛ミ去る毒の荒浪
壬寅秋(明治35年秋) 正造
谷中村について
谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外ではなく農作物の立ち枯れや魚の斃死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因を洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水池となることにより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他地へ集団移住を開始し、同年7月に谷中村は藤岡町合併させられて法律的には抹殺され、事実上の廃村となった。(案内看板より)
谷中村役場跡にて
庭田家・田中正造終焉の家
栃木県佐野市下羽田町の庭田家は、田中が息を引き取った場所だ。病床となった8畳間が今も残されている。田中は支援者らを回っていた途中の1913年8月2日、庭田家に着くと縁側から転がり込むように倒れたという。8畳間で妻や支援者らの看病を受けたが、34日目の9月4日に亡くなった。
闘病中は面会謝絶だったが、見舞客が次々と訪れた。NPO法人「足尾鉱毒事件田中正造記念館」の島野薫事務局長によると、庭田家では見舞いの人たちをおにぎりやみそ汁でもてなし、保存していた3年分のみそ、しょうゆを使い果たしたという。庭田家は没後100年の2013年9月、佐野市の史跡に指定された。部屋に「辛酸亦入佳境」と書かれた田中の書などがある。(朝日新聞D.2023.9.21付より)
辛酸亦入佳境
(庭田隆次蔵)
村々のさびしき家の軒下にも
靴音高くみつぎ取り来て
(1908年〈明治41〉3月 庭田隆次蔵)
館林市指定史跡 田中正造の墓および救現堂[ぐげんどう]
指定年月日:昭和48年(1973)4月1日
所 在:館林市下早川田町1896番地 雲龍寺
時 代:近現代
この墓は、足尾鉱毒問題にその生涯を捧げた田中正造の墓です。
足尾鉱毒事件は、明治の富国強兵政策の中で、足尾銅山から廃棄された鉱毒が渡良瀬川に流出し下流の耕地を荒廃させたため、農民らが損害賠償と営業停止を要求する大衆運動を起こした事件です。
田中正造は、天保12年(1841)下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれました。鉱毒問題に取り組んだ中心的な存在で、被害民の救済にその一生を捧げました。また、雲龍寺は鉱毒被災地のほぼ中央にある寺で、明治29年(1896)の大水害を契機に「足尾銅山鉱業停止請願事務所」が設立され、正造を始めとする被害民たちの運動の拠点となりました。
大正2年(1913)、正造は栃木県足利郡吾妻村(現佐野市下羽田町)庭田清四郎宅で73歳で没しました。仮葬儀は雲龍寺で、本葬儀は惣宗寺(元佐野市金井上町)で行われましたが、その後、遺骨は被害民によってゆかりの地に分骨されました。
この墓は、正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3mあり、首部の細い特徴のある宝塔です。平成6年(1994)の解体修理の際、基壇の最下段中央部に骨壷が確認されました。
墓の右手に建つ「救現堂」には、正造が祀られています。「救現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。日本の近現代史の一端を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
館林市教育委員会(案内看板より)
毒流すわるさ 止めずバ我やまず
渡良瀬利根に 地を流すとも
ホテルサンルート佐野 懇親会にて
「『西の伊勢参り、東の奥参り』と呼ばれるほど信仰のある出羽三山詣での登拝口として、大いに賑わった『歴史の里きよかわ』。幕末期には年間30,000人を超える参拝者が清川より三山詣へ向かったと言われています。今回は近世における清川関所の役割を出羽三山詣から紐解きます』
(案内チラシより)
◯会場:清川歴史公園 清川関所
◯スケジュール
受付/12:00-
昼食/12:00-12:50
開会/12:50-13:00 清川歴史公園管理運営委員会
展示品・企画部会長 廣田幸記氏
講座/13:00-14:00:飽海地域史研究会会長 小野寺雅昭氏
質疑応答/14:00-14:10
閉会/14:10 終了後、希望者による清川まち歩き
開会の前に、手打ちそばとそば善哉で腹拵え
思った以上に(失礼?)美味しい手打ち蕎麦でした。ヤマボウシも添えられており、お店の心遣いが嬉しい。満足。
小野寺雅昭氏 清河八郎研究会会長・飽海地域史研究会会長
小野寺先生の講演を聴くのは今日が初めてで、とても楽しみにしていた。
しかし、講演時間が1時間の持ち時間では、レジュメに沿って詳細な解説をするには無理があるように感じた。先生も判っているのか、マクラがとても長く、いつになったら本題に入るのか聴いてるほうが時間を気にしてしまった。
講演を拝聴し、今日の講義を復習し、もっと詳しく調べてみなきゃな……と、 興味を持ついいきっかけになった。
「清河八郎生家の跡」まち歩き
北楯大堰
「狩川城主北舘大学助利長の所領である地域は水はけが悪く、かんがいによる整備が急務であった。慶長17年(1612)立谷沢川の水を田川軍北辺の平野部に引く開削工事が行われ、米どころ庄内の礎を築いた。この堰は利長の名を取って北楯大堰と呼ばれる。平成30年(2018)には世界かんがい施設遺産に登録された。(HPより)」
北楯大堰に架かる御宮橋と御諸皇子神社仁王門
吽形の那羅延金剛(左)と阿形の密迹金剛(右)
立川町指定有形文化財
木造金剛力士立像 弍軀
所有者 山形県東田川郡立川町大字清川字花崎227
御諸皇子神社
指定年月日 昭和52年6月7日
金剛力士像は、通称仁王尊(仁王様)といい、仏法の守護神であるが、向かって右は阿形の密迹(みつしゃく)金剛力士、左は吽形の那羅延(ならえん)金剛で、神仏混合思想を背景に御諸皇子神社に納められた。そして、神仏分離の際に隣の歓喜寺に移され、昭和5年再び神社に戻されて、随神門に安置された。
胎内の記録によると、仏師は酒田中町伊藤権吉の作で、宝暦9年(1759)に計画し、同11年に完成している。
この金剛力士像は、作者並びに時代がはっきりしている点では、江戸時代仏像彫刻の尺度として、江戸中期の数少ない仏像のひとつであり、貴重な存在である。
寄木造 彩色 像高約380cm
平成13年8月
立川町教育委員会
(仁王門前看板より)
(仁王門前看板より)
郷社 御諸皇子神社(ごしょのおうじじんじゃ)本殿
「宮司の口伝によれば御諸皇子神社はもとは尼寺で、明治初期の神仏分離の際に神社となった。そのため、仁王門には木造の金剛力士像が安置されている。現在の社殿は1800年に再建されたが、『義経記』(ぎけいき)に「五所王子」(ごしょおうじ)とあり、創立自体は鎌倉時代以前とされている。義経や武蔵坊弁慶は平泉へと向かう際にこの神社に立ち寄り、一夜を明かしたとされている。御諸皇子神社の御祭神は御諸別命(みもろわけのみこと)で、良縁に恵まれるように祈り、髪の毛を社殿の格子に結んだことから、御諸皇子神社は近年縁結びの神社としても注目されている」
「まち歩き」では「戦争中に夫や父の無事を祈って女性が髪を切って奉納祈願した」とも話しておられた。
田川太郎の里を歩いていると、至る所にイノシシが掘ったとみられる穴があった。この地区でもイノシシやサルからの被害が甚大で、農作業を営む心が折れてしまう農家さんもいるという。
ぶら田川探検隊のスタッフに歩きながら話を聞いた。里山に人が入らなくなったことが一番の理由だが、犬が里山に出入りしなくなったことも大きな原因だという。「昔は野良犬が山サ居だもんださげのぉ」、特にサルとは犬猿の仲なので人里には寄り付かなかったのだという。
「イノシシどサルは増えだども、代わりにウサギが減ったの」、「それはハクビシンがウサギ喰うなや」と、そして「ハクビシンは猫どごも喰うものの!」、「20数匹居た猫屋敷だなさ、2〜3匹しか居なぐなったもんのぉ」と驚愕の事実を聞いた。う〜む。
別荘(=太陽建築研究所)のある付近には、熊もカモシカも、狸、狐、穴熊、イタチ、そしてウサギ、野良猫はいるが、サルやイノシシはいない……とおもわれる。一応これまでTrail cameraには写ってはいないので。出たら嫌だなぁ。
(写真はイメージです)
田川太郎の里へようこそ。今日は、田川の山里の土を踏みしめながら、一緒に古の時代を散策しましょう。
旧田川小学校のグラウンド辺りにあったと言われる「田川館跡」から東南の方を見上げると、偽ピークにもなっているが、そこに田川城跡がある。だが田川の古老に「田川城」と尋ねても怪訝な顔をされる。すなわち地元にとって忘れられた存在なのである。
全てを土で固められた「中世の山城」。日本の城跡の99%はこのような土づくりの山城だという。造られた時代や城主の豪族の名前も不詳。田川太郎一族が滅亡した1189年の後、武士による騒乱の時代に、近くの関根城などの山城群と連携して築城され、使われたものと思われる。ここを兵[つわもの]どもが駆け上がり、刃を交え合う舞台となったかもしれない。
山腹には、曲輪の形状から連想した「蛇引[じゃびき]」や、馬術や弓矢の稽古をしたかもしれない「馬場山」の地名が残る。
残された史料はなく、あるのは山上に人が手を加えたと思しき地面の痕跡のみ。だから”幻”である。500年前の時代に、この地を守ろうと必死に戦った男たちの姿を、見る者がそれぞれに想像を膨らませてみよう。その武者や百姓の中には、私たちに繋がる先祖もきっといたはずである。
(パンフレットはしがきより)
今年の「田川太郎の里 歴史ウォーク」は爽やかな天候に恵まれた。主催する田川地区自治振興会の皆さん、運営スタッフのぶら田川探検隊の皆さんが冒頭のはしがきに記したように、熱い思いがお天道様に伝わったようです。
参加者は、募集定員の30名。皆さんそれぞれ思いを膨らませて、標高218mの「田川城跡」向かった。
孟宗竹林から杉林を抜け、狼煙台跡で休憩。途中の堀切を通過する。
田川城主廓跡に到着。なんとそこでは、ぶら田川探検隊のスタッフが背負子で担ぎ上げた孟宗汁を用意し待っていてくれた。素晴らしいサプライズですのぉ!
それに、”田川かぶ”生産者の家で漬けた、田川赤かぶ漬けも最高に美味しかった。素晴らしい昼食タイムでした。感謝‼︎
以前、焼畑農が行われ、その後杉苗が植えられた斜面を降りる。苗を踏まないように倒さないように、注意注意。
田川かぶの種は、生産者が種を採って管理しており、市販はしていないとのこと。薬も肥料も使わず、タネも管理しているなんて究極の安全食物ですな。なお、温海かぶの種はどこでも買えるとのことでした。う〜む。
金峯修験と順峯修行を説明する南光院住職
『修験道史跡』 虚空蔵岳及び別当所南光院
伊勢の国朝熊岳[あさまだけ]の僧「海泉」が、諸国霊山跋渉の苦行を重ね文永3年丙寅(1266)当国に下向し羽黒、金峯の霊場を訪ね「広福坊成経」と名を改め、田川の奥里山「黒森山」(現虚空蔵山)を開き、日本三代虚空蔵菩薩 朝熊岳の御分身を安置し、別当所を南光院と公称した。
文永5年戊辰(1268)4月13日社殿造営以来、虚空蔵岳と称し修験者の奉仕・活動が盛んに行われ、金峯修験における峯中「二の宿」として知られ近郷庶民の信仰を集めた。
昭和44年9月13日
荘内文化財保存会 田川郷土史研究会
(寺院前看板より)
(寺院前看板より)
田川太郎行文の墓の墓守として代々管理している斎藤さん
『旗引川原の宝篋印塔』
西蓮花寺へ渡る蓮花寺橋の手前の右側、川沿いに約5アールの免租地神田があった。ここに?の木があり、そのもとに痛んだ宝篋印塔(鎌倉期)が、2、3基あった。文治5年(1189)田川館主行文が、北陸道からの追討軍に敗れ、戦死を聞いた武将たちが自害した場所である。この水田から取れた米は、出羽三山神社に奉納した。異説行文の自害地。圃場整備のために、現在地に移転した。宝篋印塔は宝篋院陀羅尼経を納めて置く塔で、インドに始まり、仏舎利を分けて八万四千の塔を建てた故事にならい、中国の呉越国王が同数の金銅塔を諸国に分布した。わが国へは、平安中期に渡来したが、石造物として完成した形が現れたのは鎌倉時代後期からで、基檀上に基礎、塔身、笠、相輪と積み上げ、普通塔身四面に四仏の種子を彫り、供養塔として建てられた。時代が下るにしたがって型地も崩れ、小型化し、江戸初期に至って再び大型のものが現れます。
平成5年8月
鶴岡市文化財愛護協会
田川地区自治振興会
田川郷土史研究会
(掲示看板より)
田川地区自治振興会
田川郷土史研究会
(掲示看板より)
田川太郎の墓と言われている五輪塔
毎年この時期恒例の「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」が模様された。コンテンツは下記の通り。
◯開催日時:2024年5月16日(木曜日) 9:00-15:00
◯集合解散:出羽庄内国際村駐車場
◯工程:
1.荒川寺[こうせんじ]9:15−9:30
2.荒川[あらかわ]村八幡神社 9:35−9:55
3.郷[ごう]の浜 10:05−10:15(車窓より)
手向ふるさとセンター 10:20着(トイレ休憩)
4.黄金堂・芳賀七右衛門家・芳賀兵左衛門家、
及び裏道散策 10:30−11:00
5.加藤和助寿碑 11:05−11:15
6.東堀越新山神社 11:25−11:45
7.鷺畑古墳群・鷺畑、無音等近隣集落(車窓)
昼食 草介 12:00−13:00(ワッパ騒動概略説明)
8.藤島村八幡神社・藤島城址 13:10−13:30
9.東田川文化記念館 13:35−14:20
10.六所神社 14:30−14:45
◯主催:ワッパ騒動義民顕彰会
一、 指定年月日:明治41年4月23日 (昭和25年8月29日)
一、 告示番号:内務省告示 第43号 ( 建 第497号)
一、 指定理由:文化財保護法第27条の規定による
一、 沿革
黄金堂は同境内(現在は道路によって分断)の正善院の所有である。正善院は黄金堂の別当職で往古「手向山」中禅寺正善院と称し、のち、羽黒山長寿寺正善院と称してきたが、維新後、羽黒山荒澤寺正善院として現在に至っている。もと羽黒山には羽黒山寂光寺・添川山賀我寺・広澤山荒澤寺・堂塔山瀧水寺・南流山禅定寺・金色山福王寺・手向山中禅寺・来迎山千勝寺・医王山機乗寺・不動山嘉祥寺の十大寺により構成されていたが、次第に羽黒山に統合し殷盛を極めたが、明治の神仏分離後は荒澤寺・正善院・金剛樹院の三ケ寺が現存するにすぎない。黄金堂は、山上の大金堂(今の三神合祭殿)に対して、小金堂と言います。金堂とは本堂のことで、33体のご本尊が金色に映えしより、黄金堂と書き、コガネドウと訓む。
一、 神亀5年(729) 聖武天皇勅願建立との伝承あるも詳ならず。
一、 建久4年(1193) 源頼朝建立とも伝う。建築奉行土肥次郎実平。
一、 元応2年(1320) 出羽国判官代栄家修覆。
一、 文禄3年(1594) 酒田城主甘粕備後守景継公大修覆。
一、 後世しばしば修理模様替えあり、昭和39年解体修理工期満2ヶ年、同41年解体修理完了。同61年防災設備完備。お堂の中には貴重な文化財が多くお祀られております。
一、 私達国民の宝・文化財を大切に愛護しましょう。
山形県教育委員会・羽黒町教育委員会・羽黒山荒澤寺正善院
(境内案内板より)
(境内案内板より)
この『黄金堂[こがねどう]』は、建久4年(西暦1193)源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。
その当時は『長寿寺金堂[ちょうじゅじこんどう]』(小金堂[しょうこんどう])と言われていた。また、羽黒山頂にある三神合祭殿の前身『寂光寺金堂[じゃっこうじこんどう]』(大金堂[だいこんどう])と共に、大小2つの『金堂』と言われていた。
現在の堂は、文禄5年(西暦1596)に甘粕備後守[あまかすびんごのかみ]が大修理したもので、正面5間(9m)、奥行4間(7.2m)の『方形造り[ほうぎょうづくり]』である。
境内には黄金埋蔵の伝説が残っており、国の重要文化財にも指定されている。
(境内金属プレートより)
Mt.Haguro Shozen-in Koganedo
羽黒山の門前町、手向地区にあり羽黒山頂の『大金堂[だいこんどう]』(現在の三神合祭殿)に対し、麓の「小金堂[しょうこんどう]』と呼ばれ等身大の三十三体の聖観世音菩薩[しょうかんぜおんぼさつ]を御本尊として祀る。また、明治時代の神仏分離政策の際、麓に下りた大金堂の三尊像(聖観世音菩薩、大日如来、阿弥陀如来)も本堂に遷座する。境内の於竹大日堂の於竹大日如来は、江戸と出羽国を行き来する山伏による出開帳[でかいちょう]などで広められ、江戸庶民を出羽三山に呼び込んだ。
(最新の案内表示版より)
〇指定年月日 昭和49年6月1日
この欅は、地上約4メートルで三枝し、大きく枝を張り全体が冠状となっている。根回り7.25メートル、目通り幹回り6.45メートル、樹高約25メートルに及び、育成も旺盛である。
樹齢は約500年と推定されるが、庄内地方では鶴岡市日枝神社、立川町阿古屋の欅と並ぶ名木で、由緒ある六所神社の歴史と共に歩んできたものであり、神木として保護されてきた貴重な欅である。
昭和52年3月
藤島町教育委員会 (境内案内板より)
リニューアルする「ワッパ騒動義民顕彰会誌」の表紙に使えればと、金峰山の見晴台へ田植え後の庄内平野を撮影するために向かった。
次男が中学3年頃の学校行事で登った以来だから、約10年ちょっとぶりだ。綺麗な整備された登山道ができている。本殿も綺麗になっているようです。しかも山頂トイレまでも出来ているではないか、気軽にトレッキングできることはいいことだね。
金峯神社本殿(蔵王権現堂)
今日の庄内平野
金峯山頂公衆便所
ふしぎなトイレ『バイオラックス』
「このトイレは、微生物の働きにより糞尿を効率よく分解してくれる資源化エコバイオトイレです。トイレットペーパーをご使用ください。屎尿はトイレットペーパーと一緒に肥料になります。臭いもなく無公害の環境にやさしいトイレです。 SEIWA DENKO 」と謳っている。
抽選だった「田川太郎の里歴史ウォーク」の参加当選のハガキが届いた。
昨年は、『七日台山城と大日坂道、砂谷新道を巡る山旅』」と題して開催され、多くの申し込みがあったにも関わらず抽選に当たって、とても楽しい有意義な一日を過ごせたと記憶している。
今年も楽しみだぁー‼︎
古文書解読講座
『幕末期出羽庄内横内村道中記 伊勢参宮道中記の世界』
講師:庄内酒田古文書館館長 杉原丈夫氏
伊勢参宮道中記文書の解読を行うものと期待して講義を聞き始めたのだが、ちょっと違った。
古文書を解読し探求する面白さや、杉原氏自身の古文書への向き合い方を述べた講演でした。
どちらかというと、古文書解読講座の会員へ誘う意味合いも強いかなと感じた。
「記念講演」とは知らず、「解読講座」だと意気込み過ぎて拍子抜けしてしまい、ちょっと残念。