人は何のために
生まれてきたのだろう
不覚の涙を禁じ得なかった。
悲しみと強さ、優しさ、深く心に残る演劇でした。

劇団朋友『あん』地方公演
市民劇場スタッフから、こんなコピーをいただいた。
「演劇の観方 たのしみ方」
宇野重吉
そもそも「こうあってほしい演劇の観方・たのしみ方」などあるわけもない。各人が各人の心を大きく押し開いて、素直に観ればそれでいいわけで、十人十色、百人百色、本来そういうものなのである。
ただ、その作品の味わい方、楽しみ方は、人によって深くもなり、浅くもなるものだ。文学や絵画や音楽の味わい方が、年齢とともに変化するように、演劇の楽しみ方も、年を取るほどに変わってくる。だから浅い観方や楽しみ方よりも、深い観方や楽しみ方ができるなら、なおさらその人にとって幸せなことなのである。
われわれが観客として演劇に相対する時には、自分の持っている体験や知識、情操を総動員して、想像したり、推理したり、ある時には、舞台にないものまでつけ加え、ある時はさしひいて観ているわけだ。わかりやすく言えば、観客は、その時、一人ひとりが自分自身の作品を舞台といっしょになって創り上げているのだと言ってもいい。
とすると、演劇のもっとも良い観客というのは、見識が高く、感受性の豊かな、もっと人間らしい人間とでもいうか、創造現場のわれわれに、俳優には俳優の、演出家には演出家の修行があるように、観客には観客の観客修行とでもよぶべきものがありそうな気もする。と言っても、何もむずかしいことではない。ごく普通のまじめな生活者として、誠実に、まともに、心優しく生きていれば誰しも感ずるであろうことを感ずる能力を身につけていればいいのである。
今の世の中は、あらゆる人間から、その人間らしさをどんどんはぎとってゆく非情な側面を持っているから、こんなごく普通のことさへ、ある意味では、自覚的に努力しなければならないことかも知れぬ。しかし、演劇を観る観ないにかかわらず、このことは、非情に大切だ。
今さら言うまでもないが、生きてゆくということは、汚れてゆくということでもあり、にぶくなってゆくということでもある。激しい風雪をしのいで、いつまでも、きれいな眼とやわらかい心をもちつづけるということは、ひどくむつかしい。それを援助し、励ましてくれるのが演劇であり、演劇の限らず、あらゆる芸術の鑑賞活動なのである。
何かの雑誌に書いてあったこと、何かの新聞で読んだことを、観劇の参考にするのは結構だが、それを物差しにして作品に対するのは、一番つまらない演劇の観方である。これだけさまざまな情報で、はちきれそうな世の中なのだから、情報の選択には、余程の眼力と見識がないと、ほんものと偽ものとの区別すらつかないだろう。新聞や雑誌、あるいはテレビやラジオそのものに権威があるのではないのである。問題はその文章や、談話にこそあるのだが、少なくとも演劇を観るのに、他人の頭で考えたり、他人の眼を借用したりしていたのでは、いくら観ても、その人の身につくまいし、そういう演劇の観方は、その人にとって一番不幸な方法というべきである。
観劇後、親しい友人と相集って、観てきた舞台について語り合うのは、演劇を観る楽しみの大きなひとつであるが、さりとて、そこで、他人の言うことに耳をかさず、ひたすら自分の感想を他人に押しつけるのも、これ又何のために芝居を観ているのかわからなくなる。他人の意見に耳をかたむけ、舞台への共感が、自分一人だけでなかったことに喜び、話し合ったことで、又少し、前進し得たことを自覚する。ぜひそういう集いであってほしい。第一、感動して何も言いたくない時だってあるだろう。自分にもあるのだから、他人にも必ずあるのだ。しゃべらぬことが無感動の証拠では必ずしもない。
われわれが演劇を観るのは、かたくなな、ひねこびた人間になりたくないからこそ観るのである。心の窓をあけはなって、舞台から発せられる電波のごときものを、あまさず汲み取とってほしいと思う。
要は、一人ひとりが、誠実な生活者になる以外に方法はないようでる。