ひのきしんなどが終わって、
ささっとお昼を食べてしまってから、
おきっぱなしのチャリでにをいがけに。
行き先は決めてあった。
何度も行った地域だ。
車なら教会からそんなに遠くはない、、けど、
近くもなくて歩いたら、けっこうあるなぁぁ
心定めとして、在宅10人。
ご主人さんの名前に見覚えがあった。
たしか季節感のある下の名前を話の種にして
「すてきな名前ですね」と言った覚えがあるのだ。
今日も在宅。網戸だった。中に入れてもらえた。
わたしのことも覚えてくださっていた。
とても丁寧に接してくださって好感が持てる。
毎日忙しくて、一日が早いって充実した日常みたい。
なんとかお話の合間に
かしものかりものの理のお話をくいこませてみた。
そのうちポツリと言うのだった。
『やっぱり違うな』
「なにがですか」と私。
『宗教をやっている人は心が美しいね』
「私ですか」
そうだというのだ。
「とんでもないですよー」と必死に抵抗をしたんだよ。
本当になんでそんなことを言うんだろうって。
その家を後にしながら考えていました。
きっと私のことをそう思うあの人の心が、
きれいなんだって思いました。
それはそうだなって。。。。
包容力がオーラになってましたもの。
私なんかのことをそう思ってくださって、
そんな人間じゃないのに、
もったいないやらありがたいやら申し訳ないやらで
胸を熱くしてしまい、泣きそうになってしまいました。
きっとおやさまが私のことを励まして下さったのだと思う。
おやさまを存命にするか不在にするかは、
私たち一人ひとりの念ずる心に現れて下さるという。
おやさまを口にし、時に人になり、野をかける風になり花になり、
私たちを励まして下さっている。おやさまを感じさせて、
いただけさえすればいい。
先日の笹倉先生のお話の中の一説。実は、
私も前から同じことを考えていて、嬉しかったんだー。
そんなことがありました。
また歩かせていただきます。
ありがとうございました。