拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  拈華微笑…最初の禅問答

2022年03月26日 | 観自在

  これまでのテンプレート(ブログの表紙画面)が終了したということで、今回選択したのが『蓮の華』となった。

  私には眩しいぐらい明るく、真っ向から照らされるようで・・・自己の『闇』が怯えているのを感じる。

 

  『闇』といえば、昨日、ヤクザ映画『孤狼の血Level2』を見た。もともとヤクザ映画は嫌いであるが、映画好きの性が勝って

  久々に見たが、心が『荒(すさ)ぶ』思いがした。

  『悟り』である『心の郷里』の欠落が『荒び』の原因であることは解っているが、ヤクザの世界はその極端な人間の性の現れで

  仏教の三法印・・・(仏教であることの旗印みたいなもの〜諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)のうちあまりにも宗旨にするには

  悲観的と遠慮したのか?本来はこれに『一切皆苦』が加わっていたが、この映画が描く世界はまさに『一切皆苦』であった。

  しかし、映画を観るまでもなく今ウクライナで行われている侵略というのか、戦争というのか?…ネットワークの発展した

  我々の現世界は、その一刻一刻を画像で映し出すが、・・・誰の心も『荒び』、『一切皆苦』のあるのをまざまざと観せられる。

 

  その『一切皆苦』に生きる我々の世界に『心の郷里(悟り)』のあるのを覚者となった釈迦が黙って我々に示したのが『蓮の華』であった。

  煩悩の泥沼からこそ美しい華を咲かす『蓮の華』こそ我々の『心の郷里』であることを示し、それに一人『微笑み』で返答をした弟子がいた…。

 

  このエピーソードが禪宗でいうところの最初の公案(禅問答)となった。

  仏性は誰もがもっている、ただそれを咲かすのは各自の意思の働きが必要であるところが、『人間界』の悲しくも面白いところであろうか。

  諸行無常が一切皆苦であるとき、諸法無我で心を無我『0ゼロ』にしたときに、観えてくる景色を古人は『空』と名付けたか?

 

  私は自分のブログを開けたとき、毎回、眩しすぎる『蓮の華』に私の『闇』は照らされる・・・のだろう。

  

                 



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