拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『慈悲』 と 『愛』

2022年05月06日 | 観自在

  2017年にここスイスで65歳で定年退職を迎えてからの自分のブログに何度『悟り』という言葉を書き付けただろう。

  と言っても徐々に徐々に…という感じで。

  ヨーロッパに来た頃、私の『初心』であった、『禅は誰にも伝えられるべきモノ』・・・という思いを強く持っていた。

  『思い』ばかりで、何をどのように伝えるか?さっぱりわからなかった・・・というのが本音で、気持ちだけが先走る『馬骨』だった。

 

  退職して、気持ちに余裕が出来たのか、『禅』をじっくり見つめ直し、問い直して、本当に大事なメッセージを『禅』は持っていて

  『宝の持ち腐れにしてはいけない』、という『スズキ大拙』居士の声が私を激励(これもまた間抜けの自分の勘違いかも)する。

 

  もし、『悟り』の先に『慈悲』というものがなければ、私は『悟り』などという言葉をこっ恥ずかしくて使うことができなかったであろう。

  仏教の大意は『慈悲と智慧』にあることは、大拙居士の著書に限らず、仏教書であれば仏教に関するあらゆる問いの解答である如く

  禅の公案の解答である如く、どんなに道を迂回しようとも最後に、たどり着く言葉は『慈悲と智慧』であるし、私もそう解している。

  であるから、『悟り』というものが自分とは全く違う次元にあるものではなく自分に最も近く、より根源的場所という意味でも『郷里・サトリ』

  であり、『郷』という文字の解字が『本来の自己に向き合う場』であると解したときに『自他不二』に腑に落ち『慈悲』を解することができた。

  その意味で『自分』を慈しむことが出来ない者は『他人』を慈しむことが出来ない・・・故に人は『郷里』に帰り、本来の自己を観てこなければならないのだ。

  

  自分の『慈悲心』に気づくために『禅』はあり、『悟り』がある・・・のだと思う。

  自分は浅学というかほぼ無学であるから、学問的にはどうか知らないが

  『愛』には主語があるが、『慈悲』は『自他不二』の言葉で主語がない・・・ゆえに仏教では『愛』とは言わず『慈悲』と言うのだと思う。

           

          私の大好きな Jean-Marie Borgeaud の この作品もやっぱ・・・『慈悲と智慧』じゃないかな…



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