今日(8月1日)はスイスの建国記念日で祝日。 同時に相方の従姉妹の息子の結婚式で これからレンタカーでジュラ山で行われる式に向かう。
ボクのアイパッドでは 今、IWJのツイキャスで さすがの岩上さんも『ん~ん』と黙る東大名誉教授・板垣雄三氏による混迷の世界政治動向解説
は非常に興味深く(マレーシア機墜落、イスラエルのガザ攻略、ウクライナ問題などなど総てが互いに関連している)という話・・・
若干後ろ髪をひかれる思いで出かける準備中なのに 何故かリンザイ-3を書く。
世の中混迷すると、人はいろいろなものに頼ろうとする。
宗教、思想、カリスマ性を有する人などに 教えを乞う。
その昔、リンザイ青年も禅門を叩いて 師の黄檗に 教えを乞うたら 叩かれた・・・三回聞いて 三回叩かれた・・・そうだ。
(禅では 昔からよく叩く手段を使う・・・というか今では 警策という板状の棒による作法に沿ったやり方ではあるが、 僧堂(坊さんの修行道場)では遠慮なしで
わりと思いっ切り叩く。誰でもが勝手に叩くわけではなく、数年叩かれ慣れたリーダー格の坊さん(直日じきじつ)が、ケガしない叩かれた後にスッキリする部分を
的確に叩いてくれる。・・・それでも叩かれた時の衝撃は結構あるが。)
中でも、『三十棒』で有名な禅匠・徳山という人は『言えるも三十棒、言えざるも三十棒』でとにかく『叩く』・・・という親切な教え。
とにかく禅の基本中の基本は『即今』なのだから叩くのが一番手っ取り早く、『愛のムチならぬ、覚の棒』というところか。
坐禅中の足の痛みも 警策で叩かれる痛みも 即今に目覚めるという意味では 無意味ではなかったか・・・と今では思えるが。
人が生きるという事は 育つ環境という制限はあるものの 思いや考えの確立の過程・・・といえるような一面があるだろうとして
頭がこしらえる無制限な思いや考えの風船はどんどん膨らんで 人の足が地から浮き上がって来ているのに 気づかないのが人間なのだ。
禅の悟り、といってもまず 自分の足が地に着かないと話にならないわけで 頭でっかちをまずなんとかしよう・・・という着眼点が禅のユニークなところ。
何にも難しいことじゃない、『フーッ』と一息吐く生きている自分に全意識を向ける。
坐禅していて『体を固定』しているだけに 頭が生み出す妄想は 一層凄いことになっている。
その時に坊さんがくれる一喝や一棒は、その妄想を一気に打ち砕いてくれる・・・。
でも、それはほんの一時的なものであるから、それからが難しいんだろうけどね。
ボクなんかも いつの間にか妄想の風船で ふわふわと浮き上がっては どこかに引掻けて ドサリと地面に叩きつけられたりしている毎日。
子供の時から 『警策』棒を持っていたが
これは自分を叩いてもらう為の物だとは知らなかった。
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