先日読んだ寺島実郎著『人間と宗教』によると、彼の『宗教の定義』は『再解釈と再統合』だった。
” 人類の思惟の耐えざる『再解釈と再統合』が世界宗教を形成してきたことに気づく”・・・と言う。
寺島氏も、現代の仏教学者も『日本の仏教』は『仏陀の仏教』ではないという認識だ。
しかし、その弟子や後進が『衆生救済』の大乗仏教へと『加上』してゆき世界宗教として揺るぎないものに成長していった・・・
そういった認識のなかで、それぞれの時代に生きた仏教徒による『再解釈と再統合』はその宗教に新たな『命』を吹き込んできた。
ここで、私は言いたいことが二つあって
いきなり『禅』から入った私の仏教は、即『仏陀の仏教』であり、それは即『日本の仏教』であったということ。
それは『坐禅』をしたことのない寺島氏や仏教学者には、それこそ『言語道断』である点であろう。
そしてもう一つは、宗教はまさに寺島氏が言う通り『再解釈と再統合』であることだ。
時代がまさに目まぐるしく変化する時、芯から腑に落ちる『解釈と統合』が必要であるからこそ
時代は『不立文字』(言葉・文字に依らない)『教外別伝』(経典に依らない)・・・遊戯三昧の『禅』を生んだのではないか。
時代の変化に則した、新しい発想(つまり再解釈と再統合)の仏教があるべきではないだろうか。
その意味で私が提唱している『悟り』は『郷里』は万人に解りやすい仏教の『再解釈』となるであろう。
なんといっても『創造』には、基軸が重要で、問題はそれをどう見つけるのか…である。
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