拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   武士は食わねど高楊枝・・・

2024年08月23日 | 東洋自分なり研究所

  前々回のブログで絶望ストーリー、映画『ジョーカー』について考察して、

  8月21日のブログ記事〜映画『ジョーカー』を再度観て・・・を書いた後、『なんでこうなるかなぁ〜』なんてボーっとしてると

  『武士は食わねど高楊枝・・・』なんていう、私の愚脳のどこから出てきたのか? かって一度も使ったことのない諺(ことわざ)が浮いてきた。

 

  『ジョーカー』とこの諺の『武士』と何の関係があるの?・・・と、自問してみると、確かに私は

  この映画の主人公の、上半身ハダカの痩せこけて背骨が丸く曲がった背中のシーンに衝撃を受けたが・・・どうもそれが関係しているようなのだ。

 

  私はこれまで、この諺『武士は食わねど高楊枝』について考えたこともなかったし、とくに『高楊枝』というのがピンとこなくて

  この諺に、なんとなくなじめないでいたが、今回この『ジョーカー』のおかげで腑に落ちる気がしてきた。

 

  禅をはじめ、東洋思想の基本は『身心一如』であるが、『武士が高楊枝』とは、すくなくとも『背筋を伸ばした、堂々とした様』であると解したとき

  言下に、武士というものが、幼少期より『姿勢を正す』という基本教育の徹底を思い浮かべたのだ。

 

  日本文化の根底に『武士道』というものがあり、『武士道』の根底に『禅』があった事実を考えると

  こんにち、国際的な場で、我が国の『武士道精神』を称える意味で『サムライ』という呼称が使われる場面では、

  『ジョーカー』のような人間の出現はありえそうもなく、そういった対比からふと、『武士は食わねど高楊枝』が出てきたのであろう・・・。

 

  そして私のような素性のわからない馬の骨でも、一旦海外へ出てみると何故か『サムライ』という自意識が芽生える気がするのが不思議だ。

 

             

          『 我こそは ラスト・サムライ 丸腰の 息で鬼滅の 大和魂 』 馬骨

 

  伝統文化のない北海道の片田舎で育ったガキでも、チャンバラ映画の影響のもと、『武士道』の何たるかを直感した私は、

  自分こそが本当に最後の『ラスト・サムライ』か・・・と思ってみたが、いやいや『鬼滅の刃』やらなんやかんやで、その『武士道精神』は

  動詞の『last』(継続する)という意味で、後続の日本人若者達にあらゆる在り方で『ラスト・サムライ』は、以心伝心するものなのかもしれない。