私にとって『禅』とは…そういった『問』をこれまで自分自身に発したことがあるであろうか?
いまさらという気持ち半分、いまだからこそ、という気持ちが半分ある。
『禅』は目的ではなく『悟リ』を得るための一つの方法・・・であると私は考える。
坐禅をしたからといってみんなが皆、悟るわけではなく、禅などしなくても悟りに至るひとは案外沢山いる。
ただ、『悟り』がどんなものであるか?ということだけを問題にし、それに向けて全力で活動している世界は『禅』以外にあるのか?
だから、私達が本来問題にすべきは『悟り』であろう。
私にとって『悟り』とは、植物が花を咲かし、実をつけることと同じであると考える。
人は『問』を大きく育て、飽和した時点で『悟り』という花を咲かせ、のちの人生を『慈悲』という実を共有する喜びに生きる。
むかし仏陀は『犀の角の如く、独りで行け』と言われたというが、それを実行しているのはひとり『禅』ではないかと思う。
人をして『独立独歩』させるのが『禅』の目的で、徒党を組むことではないから、その点で一般的な宗教の概念から遠い気がする。
それは『禅』の字がまさに示していると思う。『単』は解字を見ると『二つで一つであることを表している』つまり『不二』という
『悟り=法』を持って、独りで(単りで)生きてゆけ・・・という意味であると私は解している。
人の顔が一人ひとり違うように『悟り方』も人それぞれ違い無数にあるのだと思う。中心に向かって『円』があるが如し。
他人の真似は絶対に出来ないのが『悟り』で、それと真剣に『対面』する以外に道はなく、素晴らしいことに諦める必要はない。
禅僧でもない、どこかの馬の骨が解ったようなことを言ってます・・・馬骨
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