拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 遊戯三昧の湯気

2021年09月12日 | 観自在

  今朝、『朝日デジタル』で『ダウン症児の子育て』をした母親の感想、考えを記した記事を読んで考えさせられた。

  子の無い私にとって、普段考えることのないテーマであるが、自分のこととして想像するだけで、じつに重い問題だとわかる。

  記事:『生産性』のある『100点』の人しか生きられないとなっていくのは本当に生きづらい。誰もが老いたり、病気にかかったり

     するわけですから、生きているだけで100点というハードルにしないと辛くなりませんか。

     できる人ができない人をフォローするという当たり前の共生社会を思い起こしてほしいです。・・・

 

  私は自分の中に、『修羅場』に生きる者として修羅場を生き残る為の術(すべ)を必死に身につける…それが自分にとっの成長なのだ・・・、

  という部分が未だに抜けきれずにあることを、こういった事柄(記事)に出会うとよみがえったりする事を自覚する。 

 

  初めて坐禅した時、足が痛いだけで、時間が無駄に過ぎる坐禅に腹を立てたが、その憤慨が収まった時、自分が考える『過去、現在、未来…と

  直線に進む時間のあり方』に疑いをいだいた・・・。

  その自分が、『時間の公案』から『生産性100%の人しか生きる価値がない』・・・などという考えがいかに愚かな事であるかと達観するまでに

  どれほど時間を要したか…という事実に、この記事を読んで想いが馳せたのだ。

  現実問題として『弱肉強食』のような世の中で、どれほどのダウン症の子供たちが幸せに生きることができるのか?

  理解ある家族の保護から一歩外に出た時に、たとえ100%健常者であっても充足した人生を送る人は何人いるのだろうか。

 

  それには、釈尊が生まれた時に力強く宣言した『天上天下唯我独尊』から、その精神を学び取るしか『遊戯三昧』の湯気はたたない気がする。

 

        

         新居のあるモルジュの湖畔でいま『ダリア祭り』をしているが、その一環で昔風の『フイゴ』を利用した楽器を演奏していた。

         送り込む紙に穴を開けた楽譜となって、そこに歌詞が書き込まれ一種の『カラオケ』システムになっている。

         今はコンピュータを利用して簡単に紙楽譜が作成できるそうで、日曜のレマン湖畔にシャンソンが流れていた。

         

  



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