今朝、『朝日デジタル』で『ダウン症児の子育て』をした母親の感想、考えを記した記事を読んで考えさせられた。
子の無い私にとって、普段考えることのないテーマであるが、自分のこととして想像するだけで、じつに重い問題だとわかる。
記事:『生産性』のある『100点』の人しか生きられないとなっていくのは本当に生きづらい。誰もが老いたり、病気にかかったり
するわけですから、生きているだけで100点というハードルにしないと辛くなりませんか。
できる人ができない人をフォローするという当たり前の共生社会を思い起こしてほしいです。・・・
私は自分の中に、『修羅場』に生きる者として修羅場を生き残る為の術(すべ)を必死に身につける…それが自分にとっの成長なのだ・・・、
という部分が未だに抜けきれずにあることを、こういった事柄(記事)に出会うとよみがえったりする事を自覚する。
初めて坐禅した時、足が痛いだけで、時間が無駄に過ぎる坐禅に腹を立てたが、その憤慨が収まった時、自分が考える『過去、現在、未来…と
直線に進む時間のあり方』に疑いをいだいた・・・。
その自分が、『時間の公案』から『生産性100%の人しか生きる価値がない』・・・などという考えがいかに愚かな事であるかと達観するまでに
どれほど時間を要したか…という事実に、この記事を読んで想いが馳せたのだ。
現実問題として『弱肉強食』のような世の中で、どれほどのダウン症の子供たちが幸せに生きることができるのか?
理解ある家族の保護から一歩外に出た時に、たとえ100%健常者であっても充足した人生を送る人は何人いるのだろうか。
それには、釈尊が生まれた時に力強く宣言した『天上天下唯我独尊』から、その精神を学び取るしか『遊戯三昧』の湯気はたたない気がする。
新居のあるモルジュの湖畔でいま『ダリア祭り』をしているが、その一環で昔風の『フイゴ』を利用した楽器を演奏していた。
送り込む紙に穴を開けた楽譜となって、そこに歌詞が書き込まれ一種の『カラオケ』システムになっている。
今はコンピュータを利用して簡単に紙楽譜が作成できるそうで、日曜のレマン湖畔にシャンソンが流れていた。
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