拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  結界の国 『日本』

2021年12月20日 | 観自在

  日本を訪れる外国人にとって、強く印象に残るものとして『鳥居』と『禅庭』・・・が考えられる。

  私はスイスに住んでいて、日本に旅行したスイス人等の話を聞く機会がよくあり、『私は Shinto(神道)  が好きです…』という外国人が結構いて驚く。

  私自身は禅寺で修行したせいか、若干『寺贔屓』であるが、もしその縁がなければ寺にも神社にも全く関心をもたずに生涯を終えていたであろう。

 

  しかし、冷静に自分の幼少期を考え、Google Mapを見てみると、当時の自宅から北見神社まで400mほどしか離れていず、街へ行くときは

  その前を必ず通っていたし、祭りや正月にはお参りにいってたわけで、私にとって神社とその象徴である『鳥居』は

  あまりに身近にあるあまり何の感慨も持てずにいたが、実はこれが日本人一般の神道観ではないだろうか。

  私にしても、スイスで定年退職(65歳)した記念に日本旅行した際、初めて伏見稲荷神社へ行き、例の鳥居の密集を体験して『閃き』を得た口である。

 

  辞書によると『鳥居』は、神域と人間が住む俗界を区画する結界の象徴…とある。

  『結界』・・・という古くて新しいビジョンは、私が30歳で禅修行を始めたアタリから少しずつ 私の辞書に現れてくる言葉であるが

  退職記念旅行で訪れた伏見稲荷での『閃き』は、『 "鳥居" ほど禅の基本的原理である「不立文字」を体現している象徴は無い』・・・というものであった。

 

  西行の和歌 『 何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 』 出家後の彼が伊勢神宮を訪ねたときの和歌だそうだが

  まさに『神仏習合』面目躍如で僧の西行が神社を訪ねて詠った内容に、寺とか神社とかのこだわりなどまったく無い…。

  現代の日本人にしても『禅庭』に対して西行と同じ心持ちを抱いき、家の内外に『結界』という聖域のあるを尊重しながら日常を過ごしている。

  この『結界』に関しては、日本人はまさに『一億総不立文字・教外別伝』状態で、文字や言葉での理屈を求めようとせず、無宗教を宣言しながらも

  ただただ合掌、或いは柏手を打っことで『結界』が身近にあるのを無意識に認識尊重し、感謝している。

        

 

 

 

 

 

  

  



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