拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 『 人 "間" 工学 』 〜 痛感

2021年03月03日 | 人"間"工学

  『坐禅は我慢大会じゃないぞ!』・・・警策を持つ古参の雲水がしばしば叱咤激励に発する言葉だ。

  臨済禅道場では面壁ではなく、互いに対面で坐る…その間を禅僧がゆっくりと歩くが、痛そうな顔をしてるとこのセリフが鳴り響く…。

  特に初心者にとって『坐禅は我慢大会以外の何物でもない・・・』と、私などは正直思ったものだ。

  禅というと、深淵な境涯を思い浮かべがちだが、どっこいそんな夢見心地な境涯を即座に粉砕するのが『痛感』なのだ。

  禅に憧れて来る者が、現実の坐禅に『痛感』を痛感して、意思が挫かれ惨めな気持ちで下山する…者が大半であると思う。

  それを知っているから、禅は『来る者拒まず、去る者追わず…』で、その辺は実にそっけない。

  禅道場の玄関にある『脚下照顧』…の掲示の意味を詮索するまでもなく、足の『痛感』は否応なく、即座に我々を現実に『脚下照顧』させる。

  坐禅にとって、これほど重要要素である『痛感』について、誰も全く『評価』もしなければ、『罵詈雑言』を浴びせる者もいない事が

  修行中の私の大疑問であった。禅において『痛感』は低次元のこととして無視されている気がする。

  例えば、禅に関する書物を読んでも、『足の痛み』…についての意義、じっと静止して不動に耐える『精神的苦痛』の意義について

  解説している本があるだろうか?

  どんなに『 I Q 』が高い人間でも必ずしも坐禅して『悟り』を得られるものではない…という事実(むしろ悟りにはその『 I Q 』は邪魔)

  口でどんなに偉そうなことを言っても、『痛感』は即座にその人間の『金メッキ』を剥がす。

  坐禅は或いは、『ゆるやかな拷問』かもしれない、

  拷問する者『お前は初めっから悟っているだろう!真実を吐け!』

  拷問される者『いや、私は何も知りません!・・・本当です!』

  痛みを逃れようと、思わず『丹田』を充実させ、肩の力を抜き、呼吸を『痛感』に合わせた時・・・

       

       『独坐・我慢大会・・・』UFOには乗り込んだが未だ飛び立てない図(1985年ハーレムにて)

   ところで、イエス・キリストの十字架…これほど痛々しい情景はないが・・・禅的意味合いは在りや無しや?

  



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