拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 『 人"間"工学 』  〜 観音

2021年03月14日 | 人"間"工学

  恐らくどこの禅道場に行っても、どこの宗派のお寺でも『般若心経』は読誦するであろう。

  まず、リーダーが般若心経の正式名を唱える『摩訶般若波羅蜜多心経』〜・・・と。

  次に来る一節が『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・』と続く。

  この『観自在菩薩』という菩薩はじつは家の有名な『観世音菩薩』と同一菩薩で、インドから中国に『般若心経』が

  渡った際、まず鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳では『観世音菩薩』になり、後に玄奘三蔵が訳した時『観自在菩薩』となった。

  同じ菩薩が『観自在』と『観世音』という二つの呼び名が付けられ、それぞれが機能している意味合いはかなり重要だと思う。

  これは馬骨の私見であるが、仏の働きを『慈悲と智慧』と云うとき、慈悲が『観世音』、智慧が『観自在』となって

  一人の菩薩が表裏一体の働きをしている…のだと私は理解している。

 

  特に『観音』は、初めは私の禅修行法そのものになり、後に『無の境涯』を支える基盤ともなった。

  修行道場では、鐘を鳴らし、板を叩いたりして『音』を合図に行動を起こして、音の持つ役割は大変重要になってくる。

  坐禅の開始時、チ〜ンという鐘の音が3度それぞれ空気に溶け込むまでの長さを保つ…それが調(心、息、心)の芯軸に

  なるように聞いていると、その後の数息観も無数息観も自然に『観音』…をするという感覚になってくる。

  『観音』は雑念を断つ過程を助け、いつか安寧を人にもたらす。

  これが観音菩薩の救済であり、『観音』に救われる人はそこで初めて『観自在』を得るのだと思う。

        ⬇︎こちらは弥勒菩薩ですが、『観音』しているでしょう。

       

 

  

  



最新の画像もっと見る

コメントを投稿