私の辞書には『死生観』などというものは、つい最近までなかった。
すぐれた宗教者には『死生観』を宗教への入り口にした人たちが案外多いようだが、私にはそんなことに思いを馳せること自体思いつかなかった。
『誰でも一度は死にたい…と思うことがある』・・・というようなことを言っている人がいるが、私自身のこれまでの人生を還暦スキャンしてみても
『死にたい…』と思ったことはなかったように思う。(思ったのかもしれないが、思い出せない。その代わりに『穴があったら入りたい』とは思った)
釈尊は人に『死後について』問われると無記といって、一切答えなかったという。論じることを断じたわけだ。
釈尊の死後1000年経て『禅』が起きたが、仏教の『死生観』はより明確になったようだ。
ある有名な禅僧は『わが這裡(しゃり)に生死なし』といって、『ワシのところには生死などは無い』と言ったそうだが、
私はそれをなにかの比喩で、真意は別なとことにあるのだろう…と長い間おもっていた。
禅の本や、老師の提唱(講義)などで時折耳目にした公案『父母未生以前本来の面目とは?』・・・
この公案を初めて読んだ時、『なんじゃこりゃ』と思った。
その後、時々耳目にしてもまさに『ぐうの音も出ない』・・・。 それが心か頭か知らないが、片隅に在ってずーっと温めていたのだろうか
なんとなく『死生観』の答えとして腑(不二)に落ちていた、というわけだ。
自分の死後について、ああだこうだ心配したりしている人がいるが、『父母未生以前のアナタはどうなの?』と、まともに聞かれたら
その人はどう思うのであろうか。 そう考えると、この公案はじつに痛快だ。
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