拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 仏法の 『相対性離論』

2021年01月09日 | 観自在

  寺で禅修行を体験した私自身が、一旦、禅を離れて仏教を思想、歴史面から客観視した時、その有り様のあまりの広範、煩雑な様に恐れをなし

  難解であると嫌厭する人々がいるのももっともであると了解した時期があった。

  戦前に神道下の天皇制を利用した軍国主義は、戦後批判され、国民の間に宗教を嫌厭する風潮を蔓延させ、ほとんどの日本人が『無宗教』を表明した。

  私自身も『禅』に出会うまで、『無宗教』を表明し、いかなるイデオロギーの奴隷にならない自分を誇りに思っていたぐらいであった。

  今は、『無の宗教』仏教を信じている…という言葉は真実ではなく、むしろ『呼吸』している…という表現が適当であると思っている。

  そういう心境である時、難解と思われている仏教の誤解をとくにあたり、あれやこれや工夫する中で色々な『理論』が生まれてくるのだ。

 

  今日は、『相対性離論』で、仏教=相対性離論、What else ? ・・・ というくらい、仏性に『比較』は無い。

  我ですら『無我の我』なのであるから、比較のしようが無いのである。

  しかし、だからといって相対性=比較根性…を無視するわけではない、『相対性離論』でもって相対の世界を生きていこう…という理論で

  仏法である『不ニノ法門』を解りやすく表現したのが馬骨の『相対性離論』なのである。

          

  

 



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