近ごろ読み終えた本は曹洞系の禅僧の著書。
曹洞宗の坊さんは、『悟り』を汚い!…と言わんばかりに『悟り』を毛嫌う傾向があることは知っていたが。
曹洞禅は本来『只管打坐』や『黙照禅』と称し、『ひたすらの坐』を慮ると思いきや、色々小難しい理屈をこねり、それはどうなんだ?と思う。
『煩悩即菩提』とはどなた様の言葉だか忘れたが、『煩悩』あっての『悟り』であってみれば、
『禅門』を叩く時点の人間が『悟り』を求めていようが、『肚の坐った人間像』を追いかけると言うような下世話な動機であろうと
構わんのではないだろうか。『ごきぶりホイホイ』の如く、欲の突っ張ったまま中に入ってこい!・・・と思うのだ。
『ごきぶりホイホイ禅Box』に一旦入ってしまえば、
いずれ『言語道断』の禅に深まってゆくのだから、そこに入る前後は何とでも理屈をこねればイイ。
私自身は『悟り』を標榜するという、臨済禅に御縁を頂いただいたが、修行前期4年ほどは只ひらすら『数息観』に打ち込み
時折提唱してくださる老師も、居士林の世話をしてくださった和尚も古参の雲水も誰一人として『悟り』を云々する者など一人もいなかった。
海外から戻って後期5年は公案を頂いて参禅したが、『悟り』の『サ』の字も思い浮かべなかった。
そもそも『公案』というものは、余計な一切を削ぎ落とす為にあるのだからそれは当然のことであった。
特に居士としての禅修行環境は、ほどんど誰とも私語をかわすことがなく、一週間接心や土日坐禅会が終わり自宅に帰ってから
鈴木大拙の本を読んだにしても、私は『悟り』たい・・・という思いは全く湧かなかった。
それは金が無いから車に興味がない・・・?という例えに似ているのかもしれないが。
悟ったことが無いのに、どのようにそれを求めるのか? 求め方すらわからないのだから・・・
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