拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   茶室は『悟り装置』

2023年09月30日 | 東洋自分なり研究所

  私は『茶道』も『茶室』についても、門外漢であるにも関わらず、『茶の心』のようなものを知っている気になっている自分が怖ろしい・・・。

  しかし、その理由はこれであろうと目星はついている。

 

  円覚寺居士林の土日坐禅会に通うになって、毎週毎週土曜の夜の最後の坐禅の後の『茶礼』、それと翌日、日曜日の早朝の『茶礼』・・・

  特に日曜朝の『茶礼』に出される『茶』はお茶に梅干しの実をほぐして混ぜてあって、飲むと梅干しの酸っぱさと茶の湯の温かさの具合が

  なんとも言えない・・・人を元気付けるものであった。

 

  『茶』といえば、家で寝っ転がって、テレビを観ながら飲むものであったから、居士林で正座し、規矩(きく)に従って飲む『茶』は

  当時の私にとってはもう完全に『茶道』レベル次元の出来事と思い込み、これは『茶道』なんだ・・・と信じて疑わない自分が出来上がっていた。

  半年も通うと、もう役回りを申し付けられ、『侍者(じしゃ)』と称する坐禅参加者の世話係兼『茶礼』の準備と薬缶を持って『茶』を給仕する役を

  たまわる頃は観たこともないのに、歌舞伎役者や能の演者にでもなったような、神妙な顔して『茶』を注ぐ自分を笑っているもう一人の自分を感じたりしたものだ。

           

 

  以来、三船敏郎の『千利休』、三國連太郎の『千利休』、樹木希林が『茶道の先生』の映画 2021年4月10日のブログ記事〜日日是好日

  などの映画で鑑賞するぐらいで、『茶道』とはほぼほぼ 無縁の人生を送ってきた。

 

  であるのに、、、今日のブログタイトルは・・・どういう事?と、自分自身に突っ込みを入れたくなった。

 

  まぁ、いつものごとく自分勝手な馬骨論なのであるが、『悟り=郷里(さとり)』の根拠に

 『郷』の字の成り立ちを表す甲骨文字の絵が  郷里に帰って二人が『ごちそう』に向かって向かい合う様(漢字辞書)・・・

 

  これを馬骨は『郷里にもどって、本来の自己に対面する様』・・・と解釈したわけだ。人間にとってそれほどの『ごちそう』は他に無いのだし。

  二人の間にあるものはいわゆる『鍋』なのかもしれないが、私はこれを『観音鏡』とし、『響き』を持って『鏡』となる、『観音響』を通して

  『自己ともう一人の自己が一体となる様』を表現していると観たわけだ。

 

  で、先日素晴らしいコンサートについてブログを書いた時、

  私は何気なく『私は教会にいるのに、何故か茶室にいて美味しいお茶を一服いただいたような・・・贅沢なひと時を味わっていた。』・・・と

  一応格好つけて書いてみたけど、あれは本心であったが、何故『茶室』であったのだろうか・・・?と思った時、この『郷』の字の甲骨文字を思い出していた。

 

  日本の『禅文化』を代表している、と言っても言い過ぎではない『茶道』・・・。 

  その根源に『郷里(悟り)』に続く『道』が『茶室』にはあるからなのではないだろうか。