拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  人"間"工学〜『悟り』装置としての彼岸

2023年09月20日 | 東洋自分なり研究所

  私がネット界上に『東洋自分なり研究所』を設立した最大の理由は、たぶん『難解な仏教の簡易化(現代化)・・・』というようなところであろうか。

  仏教界において古来より『人は皆、仏性を持っている』(草木国土悉皆成仏)・・・と言いながら、現代に至っても一向にその気配もない。

  どころか今まさにそのシーズン中となっている『彼岸』というようなことも、本来『悟り』を標榜する語意でありながら『先祖供養』に変換されてしまった。

 

  かといって『彼岸』に到達すべく、『悟り』を人の上に大上段に供えても、誰も真剣に取り合わないことも現実だろう。

  それほど『悟り』は一般人から遠離したモノとなって・・・しかも『諸行無常』の『一切皆苦』は、世の中をますます加速中だ・・・。

  禅寺の境内から『悟り』は一歩もでず、大衆は境内に来るには来るが、それは石庭を愛でるためだけ。

  誰もが『仏性』があるというのに、それを覚醒する『悟り』には誰も真剣に立ち向かおうとはしない。 何故だろうか・・・?

 

  大乗仏教の思想は、いまだ根を付けていないし、『悟り』は極めて高邁な境涯というイメージが先行してしまった。

  『悟り』は簡単に言い換えると『差取り』に他ならない・・・。

 

  前回話した『仕』の字で解説したが、『人をしてプラス(+)・マイナス(ー)=ゼロ(0)』・・・の『差取り』なのだ。

 

  陰陽、自他、生死、善悪、光闇、心物、男女・・・そういったあらゆる二元論の『差を取る』ところから出発したらどうだろうか。

  坐禅の修行も、坐している時は『静』であるが、一旦坐を離れると『動』になってしまう。 ここで工夫の出番となる。(例えば数息観)

  それが少しずつ、坐から境内、境内から駅、駅から電車内、電車内から自宅まで・・・という風に、『動中の静・静中の動』と

  『動静を差取って』自分でも気づかない内に『禅定力』がついて『0』に近づいていくものだ。その先に『不二の法門』が開かれるだろう。

  『悟り』を『差取り』と書いた最初のブログがここにあり参考までに・・・ 2023年8月2日のブログ記事〜『観音チューニング』

  

  『差取り』が可能となるのは必ず『無』という状況で、それは『悟り装置』であり、仏はそれを『間』と称し、それを持つ者を『人間』という。