禅では『己事究明』などという小難しい言葉を使っているが
つまるところ『自分』が・・・『自ずと分かれ、自ずと分かる』という『郷里・サトリ』へ帰って『自分』を『分かる』ことをいう。
前々回のブログで臨済禅師や道元禅師流の『本来の自己』の『探究』について書いたが、
日本文化には濃淡の差はあれ、そういった雰囲気を味わうことが可能な文化的環境がまだあると思うが
ここヨーロッパでは、どうだろう。個人的レベルでは『本来の自己』というようなものを探している人もいるであろうが
総体的に観ると、そういった『己事究明』のような発想自体が皆無・・・ようにこちらの人間を観察して感じる。
ヨーロッパの人にとっては、『私の苦しみ』は『絶望的なまでに私の苦しみ』・・・であり、それ以外にはありえないという『態』である。
『私の苦しみ』であって『私の苦しみではない』・・・などとういう『曖昧』な『日本人の私』の余地がないようだ。
失語(症)に苦しむ義父はその苦しみを真っ向から受け止めている。が、歳が歳だから『忘れてもそれが当たり前だ…』的な受けとめをしない。
もっと自分を慈しんで、もっと自分に寛容であっていい。それができれば、他人にも寛容になれる。
この短歌あたりから、私の『悟り= 郷里・サトリ』の発想が来ているのだろう。(馬骨と名のる以前の)
ヨーロッパ人にとって『アイデンティティ』が重要のようだが、『自分の郷里』こそがそれだ。