私のゼミ生で、2年生の田島誠君が『無知の涙』を読んだ感想文を寄せてくれた。そこで、彼の了承を得た上で、ここに掲載する。自由なご批判を賜りたい。
『社会主義には貧乏人はいない』(「無知の涙」より)
田島 誠
「社会主義には貧乏人はいない。生活が苦しい時、皆一緒だ。政治が危うい時期、皆が耳を傾ける。誰一人その集団から逃げはしない。この日本も何時の日か、その日が、来る。そして、俺のような奴が出ない国に変わる。人たちよ!俺の叫びを無駄にしないでくれ。俺は非人に落ちたが、あなたたちは未だ人間だ。俺の叫びを無駄にしないでくれ。それとも、それとも、まだ出そうとするのか。第二の俺を。悲しいではないか、人たちよ!社会主義には貧乏人はいない。在りもしない神を語る狂人もいない。在るのは、楽しき生活を守ろうとする、その燃える力のある人々の実存だ。」
この詩は、1970年5月25日に、永山則夫がノートに残したものである。彼の獄中で記したノートがまとめられて出版された、「無知の涙(河出文庫出版)」第8章「独りぼっちの革命家(p373)」にて、載せられている。この当時、彼は独房の中でカントについて勉強をしていた。実践理性批判を、読書中であったという。それは同時期の、「死する者より その54 雲の枕でカント批判と呟くが」にて、明らかとされている。その中で永山は、「この偉大なる頭脳(カントのこと)がマルクス理論を考えてくれたのであったなら、私は幸福で荒波のない人生を送れてきたであろうと、諧謔(現代語訳:冗談・ユーモァ)じみてではあるが思う」と、記している。
話が前後するが、昭和44年7月2日に、筆記許可が降りた永山則夫は、それ以降、膨大な量のノートを書き記す。それがまとめられたものが、「無知の涙」である。「私は4人の人々を殺して勾留されている1人の囚人であります。殺しのことの忘却は出来ないであろう一生涯。しかし、このノートに書く内容は、なるべくそれに触れたくない。何故と言えば、それを思い出すと、このノートは不要用に成るからである。」という文を冒頭に、「金の卵たる中卒者諸君に捧ぐ」としている。
近代刑法は、更生の為にある。刑法は、応報の為に存在しているわけではないし、報復感情を満足させるものでもない。そこで、「知らぬがゆえに引き起こした不幸」としか言えぬ、永山則夫の惨劇を考えてみる。獄中での彼の「心」は、更生したとは言えないのか。確かに、彼が奪ってしまった4人の命は重すぎるし、殺された本人達とて無念であろうと思う。さらに言えば、死刑囚には宮崎元死刑囚(2008年執行)のような、一般人には理解出来ないと思われる、残虐或いは異常性を兼ね揃えた者がいる。だが、永山則夫は違う。永山則夫は不幸な生い立ちゆえに起こした事件によって逮捕され、独房の中で勉学が出来る環境を得て、己の行為を後悔し、裁判官も息を呑むような手記を残している。勿論、知識が ある/ない から、という基準で死刑を するか/しないか の、問題ではないが、冤罪事件で死刑執行されているという事実もある事から、「命を奪う」という行為の重さを、改めて考察するべきであるとは感じさせられる。
また、更生 しているか/していないか など、つまり、永山基準の「犯人の情状」に関係する部分は、本来は第三者が決める事ではない。しかし、永山のように、明らかに更生したであろう様子が伺えなければ、「更生した」とは、常識的に考えれば、世間一般を納得させるには至らない。しかし、罪刑均衡の事を考えるならば、過程(犯行)だけではなく、結論(更生面)も、現状より更に深く思慮すべき事だと、考えさせられる。つまり、そもそも「死刑」については、公務員による残虐刑罰の禁止云々ではなく、「人」として、考えなくてはならない事項であるのだ。
加害者・加害者の肉親・被害者・被害者遺族・弁護士・検事・裁判官・刑務官・etc..それらあらゆる存在は、すべて「人」である。だが法務大臣は、死刑という手法によって、自らの手を汚す事なく、「人」を消滅させてしまう。その結果が、永山のような逸材を失うという、文学界的或いは学問的にも、取り返しのつかない事態を招いた。加害者、いや、それを犯罪者というとして、その犯罪者は、「人」が存在しうる公共社会の、「敵」なのであろうか。仮にそうだとしても、「法で裁ける(責任無能力者は裁かれない事から)敵」を作りだしているのは、いつの時代も公共社会なのではないだろうか。そして公共社会は、作り出した敵を、死刑という制裁で、払拭しているだけではないのか。それならば、真の敵は世俗性であり、公共社会であり、国家であるという結論になる。
1969年8月15日、永山則夫は、あるヤクザ者が懲罰部屋に連行される時の騒音を聞きながら、その様子をノートに書いた。「俺の気持ちがわかってたまるけえ!なんでえ!ヤクザ者だって人間だ。この野郎、好きで成ったんじゃねえや!」 このようにヤクザは刑務官にむかって、叫び、物を投げつけていた。このときの様子を窺いながら、永山は、「彼だって暴れても仕方のない事ぐらい知ってるだろうに、それでも暴れる。彼は何処かへのノスタルジアが原因なのか。これは全然私には関係がない、然し彼の気持ちの一部かは【私は分かる気がする】。(中略)
弱小者ゆえそれを思うと不安感が一走りする。【いいですか、暴れたところでどうにも成りませんよ。】私自身に堅く言って聞かせる。往々にしてないと思うが生きていく者と違う者であるからやっぱり不安である。」(無知の涙「上等だよ!」より。)と、ノートに書き残している。
「好きで成ったんじゃねえや!」
この言葉に永山は、共感するところがあったのではないだろうか。勿論、「死刑」によって、この世の者でなくなった永山の本意は分からない。しかしもし仮にそうであるとしたら、それは後悔の念であると私は感じる。「己の過ちを、罪を、理解する。立ち直る為の努力をする。」これこそが、刑法にあるべき本質的な理念であると、私は考える。
『社会主義には貧乏人はいない』(「無知の涙」より)
田島 誠
「社会主義には貧乏人はいない。生活が苦しい時、皆一緒だ。政治が危うい時期、皆が耳を傾ける。誰一人その集団から逃げはしない。この日本も何時の日か、その日が、来る。そして、俺のような奴が出ない国に変わる。人たちよ!俺の叫びを無駄にしないでくれ。俺は非人に落ちたが、あなたたちは未だ人間だ。俺の叫びを無駄にしないでくれ。それとも、それとも、まだ出そうとするのか。第二の俺を。悲しいではないか、人たちよ!社会主義には貧乏人はいない。在りもしない神を語る狂人もいない。在るのは、楽しき生活を守ろうとする、その燃える力のある人々の実存だ。」
この詩は、1970年5月25日に、永山則夫がノートに残したものである。彼の獄中で記したノートがまとめられて出版された、「無知の涙(河出文庫出版)」第8章「独りぼっちの革命家(p373)」にて、載せられている。この当時、彼は独房の中でカントについて勉強をしていた。実践理性批判を、読書中であったという。それは同時期の、「死する者より その54 雲の枕でカント批判と呟くが」にて、明らかとされている。その中で永山は、「この偉大なる頭脳(カントのこと)がマルクス理論を考えてくれたのであったなら、私は幸福で荒波のない人生を送れてきたであろうと、諧謔(現代語訳:冗談・ユーモァ)じみてではあるが思う」と、記している。
話が前後するが、昭和44年7月2日に、筆記許可が降りた永山則夫は、それ以降、膨大な量のノートを書き記す。それがまとめられたものが、「無知の涙」である。「私は4人の人々を殺して勾留されている1人の囚人であります。殺しのことの忘却は出来ないであろう一生涯。しかし、このノートに書く内容は、なるべくそれに触れたくない。何故と言えば、それを思い出すと、このノートは不要用に成るからである。」という文を冒頭に、「金の卵たる中卒者諸君に捧ぐ」としている。
近代刑法は、更生の為にある。刑法は、応報の為に存在しているわけではないし、報復感情を満足させるものでもない。そこで、「知らぬがゆえに引き起こした不幸」としか言えぬ、永山則夫の惨劇を考えてみる。獄中での彼の「心」は、更生したとは言えないのか。確かに、彼が奪ってしまった4人の命は重すぎるし、殺された本人達とて無念であろうと思う。さらに言えば、死刑囚には宮崎元死刑囚(2008年執行)のような、一般人には理解出来ないと思われる、残虐或いは異常性を兼ね揃えた者がいる。だが、永山則夫は違う。永山則夫は不幸な生い立ちゆえに起こした事件によって逮捕され、独房の中で勉学が出来る環境を得て、己の行為を後悔し、裁判官も息を呑むような手記を残している。勿論、知識が ある/ない から、という基準で死刑を するか/しないか の、問題ではないが、冤罪事件で死刑執行されているという事実もある事から、「命を奪う」という行為の重さを、改めて考察するべきであるとは感じさせられる。
また、更生 しているか/していないか など、つまり、永山基準の「犯人の情状」に関係する部分は、本来は第三者が決める事ではない。しかし、永山のように、明らかに更生したであろう様子が伺えなければ、「更生した」とは、常識的に考えれば、世間一般を納得させるには至らない。しかし、罪刑均衡の事を考えるならば、過程(犯行)だけではなく、結論(更生面)も、現状より更に深く思慮すべき事だと、考えさせられる。つまり、そもそも「死刑」については、公務員による残虐刑罰の禁止云々ではなく、「人」として、考えなくてはならない事項であるのだ。
加害者・加害者の肉親・被害者・被害者遺族・弁護士・検事・裁判官・刑務官・etc..それらあらゆる存在は、すべて「人」である。だが法務大臣は、死刑という手法によって、自らの手を汚す事なく、「人」を消滅させてしまう。その結果が、永山のような逸材を失うという、文学界的或いは学問的にも、取り返しのつかない事態を招いた。加害者、いや、それを犯罪者というとして、その犯罪者は、「人」が存在しうる公共社会の、「敵」なのであろうか。仮にそうだとしても、「法で裁ける(責任無能力者は裁かれない事から)敵」を作りだしているのは、いつの時代も公共社会なのではないだろうか。そして公共社会は、作り出した敵を、死刑という制裁で、払拭しているだけではないのか。それならば、真の敵は世俗性であり、公共社会であり、国家であるという結論になる。
1969年8月15日、永山則夫は、あるヤクザ者が懲罰部屋に連行される時の騒音を聞きながら、その様子をノートに書いた。「俺の気持ちがわかってたまるけえ!なんでえ!ヤクザ者だって人間だ。この野郎、好きで成ったんじゃねえや!」 このようにヤクザは刑務官にむかって、叫び、物を投げつけていた。このときの様子を窺いながら、永山は、「彼だって暴れても仕方のない事ぐらい知ってるだろうに、それでも暴れる。彼は何処かへのノスタルジアが原因なのか。これは全然私には関係がない、然し彼の気持ちの一部かは【私は分かる気がする】。(中略)
弱小者ゆえそれを思うと不安感が一走りする。【いいですか、暴れたところでどうにも成りませんよ。】私自身に堅く言って聞かせる。往々にしてないと思うが生きていく者と違う者であるからやっぱり不安である。」(無知の涙「上等だよ!」より。)と、ノートに書き残している。
「好きで成ったんじゃねえや!」
この言葉に永山は、共感するところがあったのではないだろうか。勿論、「死刑」によって、この世の者でなくなった永山の本意は分からない。しかしもし仮にそうであるとしたら、それは後悔の念であると私は感じる。「己の過ちを、罪を、理解する。立ち直る為の努力をする。」これこそが、刑法にあるべき本質的な理念であると、私は考える。