本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

賢治のドタキャン理由を探る

2016-09-26 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
これまでの私の見方
 大正15年7月22日付『岩手日報』に次のような記事が載っていた。
 岩手の地と農民の藝術
  二十五日佛教会館で講演する佐伯氏談
來る二十五日夜石川啄木會主催の文藝講演會でフランスの農民藝術について講演すべき東京女子高等学院の教授佐伯郁郎氏は二十日夜行にて來盛したが同氏は次の如く語つた

私は白鳥犬田の兩氏と農民藝術協會の會員で主としてフランス農民藝術についてお話をしやうと考へて居ります我々同志の手で近く春陽堂から農民文藝十二講と云ふ本を出版する事になつてゐるので私はその原稿執筆のため友人の好意に誘はれて外山牧場でこの一夏を送る事になつてゐるのです白鳥氏は農民的な詩人としての聲價は今改めて御話する迄もなく詩壇の第一位を占むるものであると信じます、犬田氏はほうんとうに農民自身として三十年の生ガイを土に即して謙ソンにしかも勇敢に生きて來た人で土の藝術家として故長塚節先生に師事し農民大衆の合理的な解放のために戰つて來た人です、氏の多分自己の体驗から大地の藝術について素ボクにして迫力ある話をさるゝ事と思ひます啄木を生んだ岩手と云ふ土地が如何にこの土の藝術家たちを吸引したことか……

 私は迂闊にもこれまでこの記事を知らなかったのだがこの度この記事を初めて知って、もしかするとこの記事が訪問応諾をドタキャンした直接の理由ではなかったのだろうかと直感した。それはなぜかというと、『新校本年譜』の大正15年7月25日の項に、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
とあるわけだが、その使者千葉恭が追想「宮澤先生を追つて㈢」において、
 ある年の夏のことでありましたが朝起きると直ぐ
「盛岡に行つて呉れませんか」
私は突然かう言はれて何が何だか判らずにをりますと、先生は靜かに
「實は明日詩人の白鳥省吾と犬田卯の二人が訪ねて來ると云ふ手紙を貰つているのだが、私は一應承諾したのだが― 今日急に會ふのをやめることにしたから盛岡まで行つて斷はつて來て貰ひたいのです」
そこで私は午後四時の列車に乗つて盛岡に出かけることにしました。車中で出る前に聞いた先生の言葉が、何んだかはつきり分からずに考へ直してみたのでした。
「私を岩手にかくれた詩人で宮澤と云ふ者がいるさうだが、是非會つて見たいという話だが彼等は都會の詩人で職業詩人だから、我々が考へているやうな詩の詩人ではない――何かうつぼな外美のもので、それを藝術と云ふなら藝術といふものは價値がないと思ふ――私はベートーベンのあの藝術の強みを考へているのです。その場合に彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから――」と云はれたのでした。
 盛岡に着いた時は午後六時でした。あまり出かけたことのない私には盛岡は物珍しく思はれました。邊りを眺めながら講演會の會場である佛教會館に行きました。聽衆は若い女性や若い男性で一杯でしたが、控室に案内されて詩人達に會はして貰ひました。そして「私は宮澤賢治にたのまれて來た者ですが、實は先日手紙でお會ひすることにしていたのださうですが、今朝になつて會ひたくない―斷つて來て下さいと云はれて來ました。」田舎ものゝ私は率直にかう申し上げましたところ白鳥さんはちよつと驚いたやうな顔をしましたが、しばらくして、
「さうですか、それは本當におしいことですが、仕方ありません-」
私が直ぐ立ち去ろうとしましたら白鳥さんは
「ちよつと待つて下さい-ゆつくりしていたらどうですか」
「實は早く歸りたいのですから」
「それでは宮澤さんの事を少し聞かして下さいませんか」
私はしかたなく待つことにしたのでした。
「濟みませんが先生が私達に會はないわけを聞かして下さい」
私はちよつと當惑しましたが、私の知つていることだけもと思ひまして
「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから先生の今の態度は農民のために非常に苦勞しておられますから――」
私はあまり話せる方でもないのでさう云ふ質問は殊に苦手でしたし、また宿錢も持つてゐないので、歸りを忙ぐことにしたのでした。盛岡を終列車に乗つて歸り、先生にそのことを報告しました。
              <『四次元7号』(昭和25年5月、宮沢賢治友の会)16pより>
と追想しているからだ。
 この追想によれば、賢治は応諾していた7月26日の訪問を明日に控えた同25日にドタキャンしたことになる。しかもこの断りの理由はあくまでも賢治側の都合であり、常識的には、『その場合に彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから――』という謝絶の論理はあまりにも身勝手なものだろう。

 では何故このような唐突なドタキャンを賢治はしたのだろうかと驚くのだが、とはいえその理由はあっただろうから、それが何であったのか私は皆目見当がつかなかったのでこれまでずっと訝っていた。ところが今回この新聞記事を知って、私はある可能性を思い付いた。おそらく、賢治は7月22日か23日にこの記事の「佐伯氏談」を知ってその内容から、当時賢治の構想していた「農民芸術概論」と、白鳥・犬田そして佐伯等の「農民藝術協會」の目指しているものが酷似しているのではなかろうかということを察知してそうしたという可能性をである。まして、佐伯等はそれを体系化した「農民文藝十二講と云ふ本を出版する事になつてゐる」というではないかということを賢治はこの記事によって知ったから、自分の「農民芸術概論」の完成のためにはここは会わない方が賢明だと判断したからであったという可能性があったということに気付き、私はある程度腑に落ちたのだった。それはいみじくも断りの使者千葉恭が、賢治は「その場合に彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし」と言ったということと見事に符合しているから、なおさらにである。
 そこで賢治は24日の朝、訪問を謝絶しようと決断したのではなかろうか。つまり、このドタキャンの直接の理由は訪問予定の数日前のこの新聞記事にあったのではなかろうか。もしそうでなかったとしたならば、もっと早い時点で賢治は訪問謝絶を決意していたはずだからだ。常識的に考えれば、訪問を承諾していた「農民藝術協會」員の三人に対してできるだけ迷惑をかけないためにも、また一緒に生活していた千葉恭に厭な思いをさせぬ為にも、時間的にもっと前もって余裕のあるもっとましな断り方ができたはずだ。

 というのは、この年(大正15年)であれば宮澤安太郎は既に中央大学を卒業して花巻に戻って、上町に「大正十三年十月、酒販店「十字屋」を開業し」(『ワルトラワラ・第三十七号』91p)ていたということだから、大正15年7月25日頃はもちろん安太郎は花巻に居たであろう。ならば、断りの使者は千葉恭よりは安太郎の方がはるかにましである。
 なぜならば、
 賢治-従弟同士-安太郎
であり、
 賢治、安太郎、佐伯はいずれも東京啄木会のメンバーであり、しかも安太郎を通じて『春と修羅』が佐伯に贈られている<*1>。
という間柄なのだから、安太郎を断りの使者に立てればはるかに千葉恭より波風が立たないし、その謝絶の場で佐伯が取りなしてくれたでもあろうからである。賢治が応諾していた訪問を前もって断りたかったのであれば、このようなよりましなルート、つまり安太郎を通じて断ることだってあり得たのだ。
 にもかかわらず、賢治が安太郎を使者に立てなかったということは、やはりこの訪問謝絶は賢治の唐突な決断だったということを示唆しているし、そのような、物事を思い立ったら遮二無二突き進むという賢治の性向もあってなおさらそうさせた、という蓋然性が高い。それは、関登久也が賢治の際だった性向として、
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすつかり忘れてしまつたやうに、また別の新しい計画を立てたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあつた。
                <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の「前がき」より>
と述懐しているが、このドタキャンもその一つの事例だとすれば、善し悪しは別として理屈としてはすんなりと解釈できるからだ。だから逆に、どうやらこのドタキャンは、賢治の性向の為せる業であり、不羈奔放な賢治の面目躍如と言えるのかもしれない。

 どうやら、
 賢治が白鳥等の訪問応諾をドタキャンした直接の理由は、大正15年7月22日付『岩手日報』に載った「岩手の地と農民の藝術/二十五日佛教会館で講演する佐伯氏談」という見出しの記事にあったという可能性が低くない。……①
これが私のこれまでの見方だった。

新たな見方
 ところがその後、私の見方は少し修正せねばならないかもしれないと考えるようになった。先の〝犬田が原因であった可能性も〟で主張したように、「佐伯氏談」によって、当初この時の公演には来る予定のなかった犬田も同道することになり、しかも犬田も賢治宅を訪問することになってしまったことを賢治は知ったので、賢治はドタキャンしたとう可能性も否定できないと述べたのだが、それを左右するのが〝ドタキャン事件〟の起こった大正15年7月頃に既に賢治が犬田の著作や思想などをある程度知っていたかどうかということであろう。しかし、先の一覧表からも明らかなように時間軸上では『家の光』誌上からそれらを知ることは出来ないことが確認できた。『家の光』における犬田の記事の初出は大正15年の8月号だったからだ。
 ところが一方で、犬田はその時点までにかなりの著作を他の雑誌等で公にしていたこともこの一覧表からわかったから、賢治はかなり早い時点から犬田の旺盛な著作活動や農民劇に対する取り組みを知っていたという蓋然性が高そうだ。
 もしそうだったとすれば、先に私が主張した、
 賢治は犬田とは考え方が、他の点では酷似していたのだが、農民でも農民出身でもない賢治はこの点で相容れなかった。
ことを賢治は知っていたであろうから、当初予定になかった犬田も急遽賢治宅を来訪することとなったことがドタキャンの理由にもなり得るということがますます否定できない。そこで私は、従前の見方〝①〟にこの理由もプラスすることにした。
 つまり、現時点での私の見方は、前掲のこれまでの見方だけでなく
    そのドタキャンの大きな理由の一つとして賢治と犬田卯の相似性もあった蓋然性が低くない。
のではなかろうかと判断している。

 では次は、再び安藤義道著『犬田卯の思想と文学』に戻って、農民文芸運動における犬田卯の役割や『農民文芸十六講』などをさらに少しく知ることにしたい。

<*1:投稿者註> 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の335pに〔啄木会成立宣言文〕なるものが載っていて、そこに「東京啄木会」会員の名が
     啄木会同志名(順不同)
石川準十郎、石川斌、木村不二男、船越一郎、村井源一、佐伯慎一、宮沢安太郎、高橋大作…(略)…深沢省三…(略)…宮沢賢治…(略)
というように記載されている。そしてこの〔啄木会成立宣言文〕は大正10年に作られたもののようだし、賢治は大正10年には上京・しばし滞京していたわけだから賢治の名がそこにあることは何ら不思議ではないが、その中に賢治の従兄弟「宮沢安太郎」の名もある。そういえば、この大正10年の滞京中賢治は本郷の「稲垣方」に間借りしていたというし、その頃安太郎も一時その稲垣方に止宿していたということだから、安太郎が「啄木会」に入会したことは不自然ではない。そして、その安太郎の名前の直ぐ前の「佐伯慎一」とは佐伯郁郎のことである。
 ちなみに、佐伯は『春と修羅』を安太郎を通じて貰ったと証言している。具体的には、昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』朝刊において佐伯は、
◇読んでいく中に随分なつかしい顔にも出逢ひました。啄木はいはずもがな、堀越夏村氏は学校の先輩とも聞いてゐて遂にお目にかゝれないでしまつたし、宮沢賢治氏にはお目にかゝつたことがないのですが御親類の安太郎さんを通じて「修羅と春(ママ)」をいたゞいてゐます。
と述べているし、『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)の60pに佐伯郁郎の本名は佐伯慎一であると記されている。
 また、佐伯研二氏は次のようなことも『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』において紹介している。
 わたしたちは、実は花巻でも、講演し、釜石でもするはずであった。前者は、わざわざ花巻到着時間を電知し、せっかくの好摩の盆踊りも見ないで、やって行ったのに対して主催者側の不手際から、どこでどうやればいいかもわからぬ破目になって、阿部、米内、村井、加藤の四氏に御迷惑をかけて花巻遊園地むなしく(実は非常に愉快であったが)一日をくらしてしまうこととなり、釜石へは白鳥氏の急用のために果たさないでしまった。折角の機会、殊にも、犬田氏は多忙中を、わざわざやって来てくれたのに対して、只一ヶ所の講演は実に残念ではあった。…(略)…
 ちなみにこれは、啄木会主催『農民文芸会盛岡講演会』を終えて、「感謝の言葉」と題して「岩手日報」(大正十五年七月三十日掲載)に載っている記事の一部であるという。どうやら、26日の賢治宅訪問の約束を反故にされ佐伯等ではあったが同日に予定どおり花巻にはやって来て、賢治宅ではなくて花巻遊園地で空しく(実は非常に愉快であったが)時間を過ごしたということのようだ。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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