本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

入沢氏は想定済みだった

2016-02-08 08:00:00 | 『羅須地人協会の終焉』
                  《「羅須地人協会時代」終焉の真相》
 先に私は
 平成の時代になってからでもこのような合理的な推論が出来るくらいだから、当然宮澤賢治研究家ならかなり早い時点からこのことに気付き、この類の説を精緻に論考することが出来たはずだ。「演習」とは実は何のことを指し、なぜ昭和3年に実家に戻ったのが「8月」だったのかをたちどころに解明出来ていたはずだ。ところが、私の管見のせいかもしれないが、そのようなことが今までに公的に論じらたことは一切なさそうだ。
と述べたが、たしかに私は管見だった。それは、ある対談での次のような発言をこの度初めて知ったからだ。
 それは黒井千次氏と入沢康夫氏との対談「賢治童話の道程―小説とはならなかった賢治の童話―」における、入沢氏の、
 農学校の先生を辞めて、羅須地人協会や肥料設計相談所をつくったりして実践的な活動をする。そのなかで、このごろはっきりしてきたことは、労農党なんかともかなり親しい関係にあって、警察から目をつけられたりするような状態になってきている。そういうふうなことと、やはりかかわりがあると思うんですけどね。ただ、これがそのまま進まないで、日本全体から言っても昭和三年の共産党大検挙とか、労農党も解散となるし、すごい弾圧を食らっちゃうわけでしょう。その中で賢治自身も病気になってしまう。そういう社会の動きと軌を一にしているわけですよね。むしろ、賢治自身が危険人物視されているのを周りの人が心配して、病気ということにして引っ込ませてしまったのではないかとまで思いたくなるぐらい、そこのところがピタリと合っているわけですね。もちろんそれは勝手にこちらが思うだけで、病気だったことは確かだと思いますけど、ちょうどその年の秋には、盛岡近辺では陸軍大演習があって天皇が行幸している。そのころの岩手県は思想的な取締が急激に厳しくなるわけですよ。羅須地人協会に出入りしていた青年の中にも、弾圧のために土地にいられなくなって北海道へ行ってなくなった人もいたとか、そういうなかで彼自身が、自分の社会的活動の限界を否応なしに悟らされちゃったというようなことがあったと思うんです。
              〈『國文學』(昭和57年2月号、學燈社)51p~より〉
という発言だ。
 おそらく、「このごろはっきりしてきたこと」とは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」上田仲雄の論文「岩手無産運動史」の中身などのことを指しているのだろうし、「羅須地人協会に出入りしていた青年の中にも、弾圧のために土地にいられなくなって北海道へ行ってなくなった人」とは八重樫賢師のことを指しているのだろう。そして今回私が特に注目したのは、入沢氏は次のようなこと、
 「その中で賢治自身も病気になってしまう。そういう社会の動きと軌を一にしているわけですよね。」ということからも「賢治自身が危険人物視されているのを周りの人が心配して、病気ということにして引っ込ませてしまったのではないか。
を全て想定済みだったのだということにである。これはあくまでも私の勝手な想像だが、入沢氏は「もちろんそれは勝手にこちらが思うだけで」と断り書きを続けて述べてはいるものの、実はかなり蓋然性の高いことでもあると思っていたのではなかろうか、と勝手に忖度した。それは、同対談で同氏は、 
 もちろん具体的にはよくわからないけれども、ああした家ですから警察なんかとも地方の名士としてのつながりもあっただろうし、結局はお父さんのお釈迦様の掌から抜け出られないということも思い知るわけですよね。
              〈前掲書、53pより〉
と、賢治の置かれた周りの状況を認識していたからである。実際、この時「陸軍大演習」の初日(昭和3年10月6日)は花巻で御野立ちが行われたわけだが、その際に第三旅団長が「宮善」に泊まっているから、花巻警察署も「宮澤マキ」にはそれなりの配慮もしたであろう。まさに、入沢氏の「警察なんかとも地方の名士としてのつながりもあっただろう」という推測は、私も首肯するところである。

 なお、同氏は同対談で、
 『土に叫ぶ』というのを書いた松田甚次郎さんだったかな、ああいう人たちは、彼の精神を体してやるということで農村活動をつづけたわけでしょうけども、時代が厳しくなると共にむしろ翼賛的な立場になる。活動をやめて逼塞してしまうのではなくて、何とかして存続しようとすれば、そういうものとどうしてもかかわることになっていったと思うんですがね。
             〈前掲書、56pより〉
とも述べていて、「活動をやめて逼塞してしまうのではなくて、何とかして存続しようとすれば、そういうものとどうしてもかかわることになっていったと思うんですがね」という理解の仕方を知って、そうなんだよなと頷いた。昨今松田甚次郎はほとんど軽視、あるいは無視されているが、かつての松田甚次郎の賢治受容等における貢献度は計り知れないものがあるし、その実践も「(投稿者注:宮澤賢治)の精神を体してやるということで」やり続けたもののはずだから、「活動をやめて逼塞してしまう」という処し方も一概に否定はしないが、やはりそれよりは、それまでの活動を何とか継続していこうという志があったということの方を私は遥かに買いたい。話が横道にそれてしまった、元に戻そう。

 さて、この『國文學』は昭和57年の発行だから、少なくとも57年以前にこのことを入沢氏は公の場で発言していたことになり、その頃既にこの対談で述べられたことを入沢氏は想定済みだったということになる。とすれば、私が知らないだけで、この発言(「想定」)を宮澤賢治研究家の誰かがその後敷衍して既に検証しているかもしれない。私の場合はこの件に関しては澤里武治宛書簡(243)における「演習」がそのスタートであったが、結果的には入沢氏のこの「想定」、いわば「仮説」を既刊の『羅須地人協会の終焉-その真実-』や間もなく出来予定の『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』所収の「第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相」ではさら詳しく実証できたと思っているので、入沢氏のこの対談における「想定」をこの度知って、私自身は勝手に満足している。 
 
 続きへ。
前へ 
 “「羅須地人協会時代―終焉の真実―」の目次”へ。

 ”羅須地人協会時代”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿