本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『羅須地人協会の終焉-その真実-』(11p~14p)

2016-02-06 08:00:00 | 『羅須地人協会の終焉』
                  《「羅須地人協会時代」終焉の真相》








 続きへ
前へ 
 “「羅須地人協会時代―終焉の真実―」の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
いての次のようなこと等を教えていただいた。
・賢師は、昭和3年の陸軍大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ参りました。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せましたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなりました。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしておったそうです。
・頭も良くて、人間的にも立派なお方だったと聞いております。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたようです。
・昭和3年当時賢師の家の周りを特務機関がウロウロしていたものですよ、ということを隣家の方から教わりました。
 私はこれらのことを聞き知って、昭和3年の夏に花巻でも無産運動に対して徹底的な弾圧が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そしていいか、同年8月頃にだぞ、八重樫は警察から追われて函館に奔り、程なく客死していたのだ」
と報告したら、荒木は、
「こうして当時の社会情勢等を、とりわけ賢治と八重樫の関係まで知ってしまうと、そんなことは到底あり得ないといままで俺は思っていたが、たしかに賢治は警察からの事情聴取を避けられなかったかもしれないな。とりわけ、賢治が実家に帰った時期もまさしくその8月だからな…それにしても切ないな」
と頭を抱えてしまった。

 賢治の身の処し方
 すると、吉田が次のように続けた。
「でもその場合には、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署長伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであった僕は思うよ。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(中略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんのご長男ともなればそうはいかん。
実際、この陸軍大演習の最初の演習が行われた10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』によれば
 大演習南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将の統率の将校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅団長中川金蔵少将は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
とあり、南軍の主力部隊、第三旅団長が「宮善」に泊まっているくらいだから、花巻警察署も「宮澤マキ」にはそれなりの配慮もしたであろう。だから賢治の場合には、
『捕まえることはしないからその代わり、この10月に行われる陸軍大演習では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまでは頼むから実家で蟄居・謹慎していてほしい』
などと当局から懇願されたりした……なんていうこともあり得る。
 いずれ、賢治が警察から取り調べを受けてなのか、それとも賢治自身の自主的判断によってなのかはさておき、当時の労農党等の多くの活動家等に清算主義が生じたのと同様に、賢治の場合には羅須地人協会から撤退して実家にて蟄居・謹慎するという形の清算をした、ということが十分に考えられるということになりそうだ」
 そこで私が、
「つまり、昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は、体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高や治安当局による徹底したすさまじい弾圧に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していたという可能性が極めて高く、従来の定説は覆りそうだということか…」
と自分に言い聞かせるように喋ったならば、荒木が、
「そういえば、『賢治は警察から睨まれてあそこに居られなくなったから実家に戻ったのさ』という証言があるということを、以前俺に教えてくれた人が実はあったのだが、やはりそういうことだったのかといま思い返している。でもそうなると賢治は仮病を使ったということになりそうで、俺としてはいたたまれないな。そのような身の処し方を賢治はほんとにしたんだべが…」
と肩を落とした。
 その様子を察知してか吉田は、
「たしかにそれは巷間伝わっている賢治像には反するかもしれないが、普通の人間ならよくあることだし、僕は以前賢治の甥の一人に『賢治はどんな人でしたか』と強引に訊ねたことがある。するとその甥は『普通の伯父さんでしたよ』と教えてくれた。
 だから、なっ荒木、賢治は重病だったから実家に戻って病臥していた訳ではなくて、その真の理由は「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の厳しい「アカ狩り」から逃れるためだった、でもいいじゃないか。賢治だって基本的には我々と同じ、そういう点では普通の人間だったのだと思うよ」
と荒木を気遣った。
 一方の私は、能天気に
「これで私は一つ胸のつかえが下りた。というのは、例の澤里宛書簡の中の「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」の意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わったら再び羅須地人協会に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べていたのだということが解ったので、ほぼ謎が解けた気がするからだ。
 もちろんこの賢治の変節については多少違和感はあるが、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。私などは、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感じることが出来て、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと思えてくる」
と自分の素直な想いを語った。

 不自然な療養の仕方
 おもむろに吉田が言い出した。
「実は、菊池武雄の「賢治さんを思ひ出す」の中に
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。    
        <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)>
という回想がある。
 つまり、8月10日直後に菊池と藤原嘉藤治の二人は羅須地人協会を訪れたのだが賢治は留守だった。そこで菊池は賢治を見舞うためにその後わざわざ実家を訪れたのだが、賢治の病状がよくなくて面会が叶わなかったという。
 ところが、佐藤隆房が自身の著書『宮澤賢治』において次のようなことを述べている。
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>
これを読んで僕は驚いたね。賢治の実質的な主治医とも言われる佐藤隆房が、実家に戻った賢治にはそれほど熱があった訳ではなかったと証言していることになるからだ。
 しかもその佐藤隆房が、
  両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という表現をしていることはいささか奇妙なことだ。どうしてこの部分を素直に
  両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現せずに、なぜわざわざ「という診断」という文言を付したのだろうか。このような言い表し方では逆に、賢治はたいした熱があった訳ではないが、佐藤長松医師に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにした、という可能性があるとも言える」
 そこで私が、
「そうすると、菊池武雄の見舞の際に賢治がかたくなに面会を謝絶したのは、もし直に会ってしまえば病臥するほどの症状か否かをすぐ読み取られるかもしれないということを恐れたからか」
と問い掛けると、
「実家に帰った賢治はたいした発熱があった訳ではなかったと佐藤隆房が証言している。にもかかわらず、友人の菊池が見舞に行っても謝絶している。妹のクニが刈屋主計と9月5日に養子縁組をしたがその際の宴にさえも出ていないという。9月下旬には「すがすがしくな」ったと賢治本人が明かしているし、療養のかたわら秋には菊造りをしていたと佐藤隆房は前掲書に記している。しかしこの頃も含めて、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということ等を一切どこにも著していないはずだ。調べてみると、賢治が8月に実家に戻ってから少なくとも陸軍大演習が終わる頃までの間に、家族や担当医以外で直に賢治に会えた人物がいたということは「新校本年譜」等からは窺えない。
 このような賢治の療養の仕方は極めて不自然だ。こんな不自然な過ごし方を普通世間一般では何と言うか…」
と吉田が応えていたところへ、
「見えた! これこそまさに「蟄居・謹慎」ではないか」
と私はつい大声を出してしまった。

 論じてこられなかったことの意味
 一方、荒木の方は
「なるほどそういう見方があったのか。こうなってしまうと、賢治は重病だったから実家に帰ったというよりは、やはり蟄居・謹慎のためだったということの方がますます信憑性を帯びてきたような気がする。しかし弱ったな…まさか賢治がそんなだったとはな…」
と溜息をついてから、やや気を取り直して
「でもさ、賢治が当時の凄まじい「アカ狩り」を恐れて実家に戻って蟄居・謹慎していた、という類の説はいままで全く論じられてこなかったと思うんだよな…」
と首を傾げると、吉田は
「賢治は気の毒なことに、死んでからはいつも誰かに利用され続けて来た。賢治が当時はたして「主義者」であったか否かはさておき、賢治が少なくとも「アカ」と見られていたことはほぼ確実だから、特に戦時中は、賢治を利用しようとしていた人達にとってそのような類のことは極めて不都合だったんだ。だから彼等はそのことに完全に蓋をしてしまった。アンタッチャブルなことになった。そして、後にやっと再びその蓋をこじ開けたのが名須川溢雄と言える。僕はそんな不自然な扱いを受けてきた宮澤賢治が気の毒でならない…」
と嘆いた。そこで私は、
「そうだよな。私たち素人三人組でさえも、それも平成の時代になってからでもこのような合理的な推論が出来るくらいだから、当然宮澤賢治研究家ならかなり早い時点からこのことに気付き、この類の説を精緻に論考することが出来たはずだ。「演習」とは実は何のことを指し、なぜ昭和3年に実家に戻ったのが「8月」だったのかをたちどころに解明出来ていたはずだ。ところが、私の管見のせいかもしれないが、そのようなことが今までに公的に論じらたことは一切なさそうだ。まさしくこの実
****************************************************************************************************

 続きへ
前へ 
 “「羅須地人協会時代―終焉の真実―」の目次”へ。

 ”羅須地人協会時代”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿