本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『羅須地人協会の終焉-その真実-』(~2p)

2016-02-03 08:30:00 | 『羅須地人協会の終焉』
                  《「羅須地人協会時代」終焉の真相》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
               (昭和3年9月23日付)」》
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。 休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。 <同書簡び写真は遠野市立博物館所蔵のものである>

目次

はじめに ………………1
「新校本年譜」の註釈 ………………1
昭和3年8月10日の賢治 ………………2
「かつての賢治年譜」の検証 ………………3
(1)心身の疲勞を癒す暇もなかったのか  3
(2)気候不順に依る稲作の不良はあったのか  5
 (3)風雨の中を徹宵東奔西走したのか6
(4)遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅したのか  6
「逃避行」していた賢治 ………………7
「演習」とは「陸軍大演習」のこと ………………8
八重樫賢師について       ………………10
賢治の身の処し方 ………………11
不自然な療養の仕方 ………………13
論じてこられなかったことの意味 ………………14
おわりに ………………15
参考図書等 ………………16

 はじめに
 ずっと以前から疑問に思っていたことがある、あの「演習」とは一体何のことだろうかと。
 それは、宮澤賢治が愛弟子の一人澤里武治に宛てた書簡(昭和3年9月23日付)に、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。  <傍点筆者/『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
としたためている中に出てくる、この「演習」のことである。
 素直に考えれば、「すっかりすがすがしくなりました」というのであれば速やかに羅須地人協会に戻り、それまでのような営為をそこで行いたいと賢治は愛弟子に伝えるであろうと思いきや、「演習が終るころ」までは戻らないということになる訳だから、この「演習」は極めて重要な意味合いを持っていると言わざるを得ない。そのような「演習」と一体は何のことだろうかと長らく気になっていた。

 「新校本年譜」の註釈
 荒木が言った。
「そういえば伝えるのを忘れてた。鈴木は以前、「演習」とは何のことだろうって言ってたよな。そのことについて「新校本年譜」に註釈がしてあったぞ」
「えっ、そうだったんだ。気付かなかったな。どこどこ、どこに…」
と言いながら筆者の私鈴木は、「新校本年譜」すなわち『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)を本棚から引き抜いて手渡した。すると荒木は、
「ここここ。「九月二三日」の項に、
演習(*45)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
とあるだろ。そしてほらこの〟*45〝の註釈として
盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
とあるじゃないか」
と教えてくれたので、私は
「じぇじぇじぇ。そうか、「八月一〇日」の項にではなくて「九月二三日」の項の方にあったのか。やったやった!」
と喜んだ。するとそれまで黙っていた吉田が、
「荒木やるじゃないか。そういえばえ~と、そうそう、その「盛岡の工兵隊」については、及川雅義著『花巻の歴史 下』にたしか何か書いてあったな。鈴木その本持っていたよな」
と言うので、それを手渡すと、
「ほら、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
とあるだろ。うむっ…変だ」
それを吉田の肩越しから見ていた荒木も直ぐさま、
「そうか。そうだ、変だ」
と肯んずる。私はうろたえながら訝っていると、荒木が
「いいか、この工兵等の架橋演習が行われた期間は〟七月下旬から九月上旬まで〝であったということになるだろう。したがって、賢治が澤里に宛てた書簡の日付は9月23日だからその時点では既にこの架橋演習は終わっていたことになる。ところが、賢治が書簡にしたためたところの「演習」は、この文章表現からしてまだ9月23日時点では終わっていないものと解釈されるから、この架橋演習のことではない、ということさ」
と、説明をしてくれた。
「あっそうか、そういうことだよな…」
私の喜びは束の間、直ぐさま落胆に変わってしまった。
 ところが荒木は言い出した手前もあってか、
「よしこうなったら乗りかかった船だ、徹底的に調べてやろうじゃないか」
と言い出す。荒木という男は壁にぶつかったときにこそかえって元気の湧いてくる奴である。すると吉田も意気に感じたのか、
「しょうがないな、それじゃ僕も付き合ってやることにしようか。ではそのためには、「新校本年譜」で「昭和3年8月10日」の記載がどうなっているかをまず確認してみようよ」
と身を乗り出してきた。

 昭和3年8月10日の賢治
 私達は「新校本年譜」を眺めてみた。そこには次のようなこと等が記されていた。
八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。高橋武治あて手紙に八月一〇日から丁度四十日間熱と汗に苦しんだとあるので、この日からと推定する。
「あれっ、そうだったかな。俺の記憶によれば、この日の定説は『賢治は風雨の中を徹宵東奔西走したために風邪をひき、実家に帰って病臥した』だとばかり思っていた。鈴木、すまんが十字屋書店版の『宮澤賢治研究』をちょっと見せてくれ」
と荒木が言う。それを手渡すと、同書所収の「宮澤賢治年譜」を開きながら、荒木は昭和3年の中の記載事項
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
を指し示した。
「そうか、以前は断定していたものがいつの間にか推定に変わ
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《鈴木 守著作案内》
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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