「賢治伝記」の虚構―捏造された〈高瀬露悪女伝説〉―
(『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
さて先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、ある賢治研究家から過日、
露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうかね。
と問われた。
私がいままで検証してみた限りでは、露が〈悪女〉にされる客観的な理由や根拠は何一つ見つからなかった。しかしながら、現実にはそうされている、つまり濡れ衣を着せれているわけだからそうされた「理由」は必ずあるわけだがそれは見出せていなかったので、その方の問いに私は『その点に関してはわかりませんでした』とお答えした。実際、この点に関しては誰一人として公には論じてはいないはずだ。そして一方で、実は私はそこまでは立ち入るつもりはそれまでは殆どなかった。
しかし、それではあまりにも無責任だったかな、拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上はその点に関しての私見を少なくとも一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えてみた。するとある時、もしかするとこれがその一つの「切っ掛け」の可能性としてあり得るかもしれないということに気付いたので、そのことを以下に述べてみたい。ただしこれから述べることは、あくまでもその可能性に過ぎず、それが事実であると主張したいわけでは毛頭ない。しかも、その「切っ掛け」の可能性でしかないことを前もってお断りしておく。
思考実験〈露が悪女の濡れ衣を着せられた「切っ掛け」〉
先に私は、〝『伊藤ちゑから見た賢治』〟において、次のようなことを述べた。
さてではその「蓋然性の高いあること」とは何か、それは、
露が下根子桜訪問を遠慮し出したのが昭和2年夏から
であると考えられるということと
伊藤兄妹が賢治との見合のために昭和2年10月に花巻を訪れた
という、時間的な推移から気付くことである。
もう少し具体的に言えば、巷間、賢治は露を拒絶するために奇矯な言動をしていたといわれている。しかも、昭和2年10月に見合のためにちゑが花巻を訪れたのだから、それ以前に見合の話は既に進んでいたと考えられる。となればこの時間的な流れはあまりにも合いすぎているので、普通に考えて、有り体に言えば、
ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし、ちゑのことを
ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)より>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを結構真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていた。
そういえば、その頃のちゑは二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていたということだから、まるで聖女の如き、しかもちゑはモダーンで美しい人であったともいうことだから、そのようなしかも東京に住むちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もない。
しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合のために花巻に一度は来たものの<*1>、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になって初めて覚った (まさに10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒) と考えられる。
とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為を恥じ、昭和7年に露に詫びに行った(『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという)。そして、遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人も、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると私に語ってくれた。なお、これらの詳細は拙論「聖女の如き高瀬露」をご覧いただきたい。
そしてもちろん、このような次第だから賢治が露を〈悪女〉にでっち上げる理由など何もない。したがって、当然それは賢治以外の人物がそうした。それは、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像はそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。言い換えれば、父政次郎から厳しく叱責されたことがたしかである賢治の奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない悪女に仕立てるしかなかったのである。露は、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で、犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪である。
以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない悪女にされたのかの説明が一通りつく。言い換えれば、有力な次のような仮説がここに立てられる。
なお重ねて言うが、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったかもしれないが、もちろん賢治が露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共にまずなかろう。そうではなくて賢治周縁の誰かが、賢治のために良かれと思って行ったことなのかもしれないが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を貶め名誉を傷つけてしまった許されざる行為である(この点に関しては拙論「聖女の如き露」である程度明らかにできたはずだ)。
<*1:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
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(『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
鈴木 守
〈補足〉さて先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、ある賢治研究家から過日、
露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうかね。
と問われた。
私がいままで検証してみた限りでは、露が〈悪女〉にされる客観的な理由や根拠は何一つ見つからなかった。しかしながら、現実にはそうされている、つまり濡れ衣を着せれているわけだからそうされた「理由」は必ずあるわけだがそれは見出せていなかったので、その方の問いに私は『その点に関してはわかりませんでした』とお答えした。実際、この点に関しては誰一人として公には論じてはいないはずだ。そして一方で、実は私はそこまでは立ち入るつもりはそれまでは殆どなかった。
しかし、それではあまりにも無責任だったかな、拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上はその点に関しての私見を少なくとも一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えてみた。するとある時、もしかするとこれがその一つの「切っ掛け」の可能性としてあり得るかもしれないということに気付いたので、そのことを以下に述べてみたい。ただしこれから述べることは、あくまでもその可能性に過ぎず、それが事実であると主張したいわけでは毛頭ない。しかも、その「切っ掛け」の可能性でしかないことを前もってお断りしておく。
思考実験〈露が悪女の濡れ衣を着せられた「切っ掛け」〉
先に私は、〝『伊藤ちゑから見た賢治』〟において、次のようなことを述べた。
<注> 伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説があるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。
なおその後の調べで、清六の証言によれば伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であったということを私は知ることができたから、これとちゑの書簡の前掲の記述とを併せて判断すれば、
伊藤兄妹が賢治との見合のために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ間違いなく言えるであろう。そしてそれは奇しくも、露が「昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました」と証言しているから、その遠慮し出した直後のことであったと言えるようだ。したがって、この見合の時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることを教えてくれるからだ。
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《補足》なおその後の調べで、清六の証言によれば伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であったということを私は知ることができたから、これとちゑの書簡の前掲の記述とを併せて判断すれば、
伊藤兄妹が賢治との見合のために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ間違いなく言えるであろう。そしてそれは奇しくも、露が「昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました」と証言しているから、その遠慮し出した直後のことであったと言えるようだ。したがって、この見合の時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることを教えてくれるからだ。
さてではその「蓋然性の高いあること」とは何か、それは、
露が下根子桜訪問を遠慮し出したのが昭和2年夏から
であると考えられるということと
伊藤兄妹が賢治との見合のために昭和2年10月に花巻を訪れた
という、時間的な推移から気付くことである。
もう少し具体的に言えば、巷間、賢治は露を拒絶するために奇矯な言動をしていたといわれている。しかも、昭和2年10月に見合のためにちゑが花巻を訪れたのだから、それ以前に見合の話は既に進んでいたと考えられる。となればこの時間的な流れはあまりにも合いすぎているので、普通に考えて、有り体に言えば、
昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するようになっていった。
ということである。ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし、ちゑのことを
ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)より>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを結構真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていた。
そういえば、その頃のちゑは二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていたということだから、まるで聖女の如き、しかもちゑはモダーンで美しい人であったともいうことだから、そのようなしかも東京に住むちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もない。
しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合のために花巻に一度は来たものの<*1>、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になって初めて覚った (まさに10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒) と考えられる。
とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為を恥じ、昭和7年に露に詫びに行った(『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという)。そして、遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人も、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると私に語ってくれた。なお、これらの詳細は拙論「聖女の如き高瀬露」をご覧いただきたい。
そしてもちろん、このような次第だから賢治が露を〈悪女〉にでっち上げる理由など何もない。したがって、当然それは賢治以外の人物がそうした。それは、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像はそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。言い換えれば、父政次郎から厳しく叱責されたことがたしかである賢治の奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない悪女に仕立てるしかなかったのである。露は、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で、犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪である。
以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない悪女にされたのかの説明が一通りつく。言い換えれば、有力な次のような仮説がここに立てられる。
露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」はちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。
なお重ねて言うが、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったかもしれないが、もちろん賢治が露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共にまずなかろう。そうではなくて賢治周縁の誰かが、賢治のために良かれと思って行ったことなのかもしれないが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を貶め名誉を傷つけてしまった許されざる行為である(この点に関しては拙論「聖女の如き露」である程度明らかにできたはずだ)。
<*1:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
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