「賢治伝記」の虚構―捏造された<高瀬露悪女伝説>―
(『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
ところで昭和24年発行の『宮澤賢治と三人の女性』の中に、森が、
露=「このましくない女性」
と決めつけている記述がある(同書174p)。しかも先に引用したように、それよりも遙か以前の昭和9年発行『宮澤賢治追悼』中で、
さてここから以降は私の思考実験だ。
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(『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
鈴木 守
思考実験〈「下根子桜訪問」を一九二八年とした訳〉ところで昭和24年発行の『宮澤賢治と三人の女性』の中に、森が、
露=「このましくない女性」
と決めつけている記述がある(同書174p)。しかも先に引用したように、それよりも遙か以前の昭和9年発行『宮澤賢治追悼』中で、
一九二八年の秋の日…(筆者略)…途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた云々 …②
と森は書いているので、はしなくもこの「昂奮に眞赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた」という表現からは、遅くとも昭和9年頃(≒賢治没直後)から既に、《露=「このましくない女性」》という図式で森は露を捉えていたことが導かれてしまう。さてここから以降は私の思考実験だ。
一般に、誰でもがそうであるように、人間心理的に案外でたらめな時期はでっち上げにくいものだ。そこで森は、実際に賢治を訪ねた日を思い出して、その日をこの「一九二八年の秋の日」としてでっち上げた。
実は、森は昭和3年の秋に賢治の許を訪れていたのだ。道又氏が伝えるように、森は病が癒えて昭和3年6月には『岩手日報社』に入社もできたし、昭和3年の秋には花巻ぐらいまでならば出掛けることができる程には快復していたから、「昭和3年(一九二八年)の秋の日」に、実家で病臥しているという賢治の見舞いと自分の岩手日報入社報告を兼ねて森は豊沢町を訪れた。そこで、『宮澤賢治追悼』所収の「追憶記」において、森は件の「下根子桜訪問」を先に引用した〈②〉のように創作した。
というのは、昭和9年頃であれば、「一九二八年の秋に賢治は下根子桜には居なかった」ということはまだ殆ど世間に知られていなかった(賢治はその頃たしかに病気がちではあったが、実は凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していたから、そのことは世に殆ど知られていなかった)から、「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と記述しても森は読者を誤魔化せると思った。
あとは、「下根子桜訪問」の顚末、とりわけ「露とのすれ違い」は虚構であり、《露=「このましくない女性」》という位置づけで、佐藤通雅氏の表現を借りれば「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作」をしてしまった。とはいえ、森にもうしろめたさがあったからその訪問時期を可能な限りぼやかしたかったので、そこだけは西暦表現を用いて「一九二八年」とした。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけを西暦で「一九二八年」としたのはそのような心理が働いていたためだった。
ただし森は、『宮沢賢治 ふれあいの人々』ではその訪問時期を「大正15年の秋」とした。それは、同書が出版された昭和63年頃になると流石に「賢治年譜」も定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜に居なかったことは遍く知れ渡ってしまったから、もし森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と述べたならば、それは破綻を来していることがもはや容易に指摘されてしまう時代になっていたからだ。さりとて、森自身はそれを「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き換えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったから実際そうできなかったし、しかも森が当時重篤だったことは世間に知られていたからそう書いたとすればこれまた嘘だということが直ぐばれる。だが森は、「下根子桜訪問と露とのすれ違い」については是非活字にしたかったので、もはや「下根子桜訪問」の「年」は残された「大正15年」とするしかなかった。ただし、もうあれこれ穿鑿されることを避けるために、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、先程以上に森はぼやかした表現にした。
実は、森は昭和3年の秋に賢治の許を訪れていたのだ。道又氏が伝えるように、森は病が癒えて昭和3年6月には『岩手日報社』に入社もできたし、昭和3年の秋には花巻ぐらいまでならば出掛けることができる程には快復していたから、「昭和3年(一九二八年)の秋の日」に、実家で病臥しているという賢治の見舞いと自分の岩手日報入社報告を兼ねて森は豊沢町を訪れた。そこで、『宮澤賢治追悼』所収の「追憶記」において、森は件の「下根子桜訪問」を先に引用した〈②〉のように創作した。
というのは、昭和9年頃であれば、「一九二八年の秋に賢治は下根子桜には居なかった」ということはまだ殆ど世間に知られていなかった(賢治はその頃たしかに病気がちではあったが、実は凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していたから、そのことは世に殆ど知られていなかった)から、「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と記述しても森は読者を誤魔化せると思った。
あとは、「下根子桜訪問」の顚末、とりわけ「露とのすれ違い」は虚構であり、《露=「このましくない女性」》という位置づけで、佐藤通雅氏の表現を借りれば「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作」をしてしまった。とはいえ、森にもうしろめたさがあったからその訪問時期を可能な限りぼやかしたかったので、そこだけは西暦表現を用いて「一九二八年」とした。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけを西暦で「一九二八年」としたのはそのような心理が働いていたためだった。
ただし森は、『宮沢賢治 ふれあいの人々』ではその訪問時期を「大正15年の秋」とした。それは、同書が出版された昭和63年頃になると流石に「賢治年譜」も定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜に居なかったことは遍く知れ渡ってしまったから、もし森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と述べたならば、それは破綻を来していることがもはや容易に指摘されてしまう時代になっていたからだ。さりとて、森自身はそれを「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き換えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったから実際そうできなかったし、しかも森が当時重篤だったことは世間に知られていたからそう書いたとすればこれまた嘘だということが直ぐばれる。だが森は、「下根子桜訪問と露とのすれ違い」については是非活字にしたかったので、もはや「下根子桜訪問」の「年」は残された「大正15年」とするしかなかった。ただし、もうあれこれ穿鑿されることを避けるために、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、先程以上に森はぼやかした表現にした。
(思考実験終了)
以上、このように「事の顚末」を推論してみたならば、もちろんあくまでも思考実験上でだけの話だが、全ての事柄がうまく説明が付くことも事実だからここまでの実験によれば、有力な <仮説>:森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。…③
が定立可能だ。しかも、今までの検証結果を振り返って見れば、この<仮説③>を裏付けるものこそあれ、その反例は見つからない。続きへ。
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