本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

森は当時重篤だったことの意味するところ

2015-10-24 08:00:00 | 捏造された〈高瀬露悪女伝説〉
「賢治伝記」の虚構―捏造された<高瀬露悪女伝説>―
        (『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
鈴木 守
 森は当時重篤だったことの意味するところ
 では、なぜ森は通説となっている「一九二七年の秋の日」と書くわけにはいかなかったのだろうか。考えられる有力な一つの理由は、森は当時重篤であったということだ。ちなみに、道又力氏の「文學の國いわて」(平成26年2月16日付『岩手日報』掲載)によれば、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
 昭和三年六月、病の癒えた荘已池は、盛岡中学時代から投稿を重ねていた岩手日報へ学芸記者として入社。会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった。
という。つまり、当時森は病気となり帰郷、その後盛岡病院に入院<浦田敬三編『森荘已池年譜』より>したりして長期療養中だった。
 となれば、快癒したという昭和3年6月以降でさえも森は「会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった」というくらいなのだから、病が癒える前の、通説となっている「昭和2年の秋の日」の下根子桜訪問があったとは考えにくいことになる。帰郷して入院するほどだからかなり重病だったと判断されるし、重病の「心臓脚気」であればわずかな運動でも胸が苦しくなるということだから、そのような「心臓脚気」等に罹っていて長期療養をしていた森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて下根子桜へ訪ねて行き、しかもそこに泊まったということは常識的には考えられないからだ。
 一方で、上田の前掲論文において紹介されている菊池映一氏の証言によれば、「露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏までであった」ということだからなおさら、「一九二七年(昭和2年)の秋の日」に森が下根子桜の賢治の許を訪ねたとしても、道で露とすれ違ったという可能性はかなり低いことになる。
 ならばいっそのこと、「一九二七年の秋の日、下根子桜に賢治を訪れた際に道で露とすれ違い、その日はそこの別宅に泊まった」と森は開き直ることもできただろうに、なぜそうせずに「一九二八年の秋」としたのだろうか。私はその理由を、森が重篤だったことが当時かなりの程度世に知られていたからに違いないと推測した。
 そこで、実際に昭和2年当時の『岩手日報』を調べてみたならば、次のようないくつかの記事が載っていた。
・4月7日 「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
 …その時の一人森君は今、宿痾の爲、その京都の樣な盛岡に臥つてゐる。…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
・5月19日「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
 …或いは急に岩手にもどつて病で歸してる森君の事…
・6月5日「『牧草』讀後感」 下山清
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
・6月16日「郷愁雑筆」 上田智紗都
 …いつも考へてゐながら森佐一(筆者註:森荘已池のこと)には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。
 しかも、「脚気衝心」とは、『脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至る』<『広辞苑 第二版』より>ということだから、これらの一連の報道からは、森は病気となり帰郷、かなり重篤であったということが結構世間に知られていたであろうことがこれで明らかになった。予想どおりであった。ということであれば、森が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」と書く訳にはいかなかったということは明らかだ。もしそのような書き方を森がしたならば、世間から『重篤な森にそれは無理。嘘だろう』と直ぐに指摘されてしまいかねないからだ。
 ここで思い出したことがある。それは、『宮澤賢治と三人の女性』の中ではそういえば西暦が殆ど使われていなかったはずだったということをだ。そこで、同書では西暦と和暦がどう使われているかを調べてみたならば、
「Ⅰ 挽歌を中心に」においては、
 明治十五年、明治三十一年、明治四十五年、大正二年(2回)、大正四年、大正六、七年頃、大正七年(3回)、大正八年、大正九年、大正十年(2回)、大正十一年、大正十二年、昭和十四年(2回)、昭和十八年、昭和二十三年
「Ⅱ 昭和六年七月七日の日記」においては、
 大正十五年(2回)、一九二八年の秋の日、私は下根子…、昭和三年(2回)、昭和六年(3回)
「Ⅲ『三原三部』の人」においては、
 昭和三年(3回)、昭和八年、昭和十五年(2回)、昭和十六年(3回)、昭和二十一年
となっていた。改めて吃驚した。何と、西暦表記は一個所しかなく、しかもそれはまさに件の「一九二八年の秋の日、私は下根子…」の個所だけだったからだ。それも、同じ年のことなのに他の個所では和暦の「昭和三年」を使っているというのに、だ。
 ということは、どうやらこの個所だけは西暦で「一九二七年」とも、和暦で「昭和三年」とも書くわけにはいかなかったということになりそうだ。言い方を換えれば、森の件の下根子桜訪問は通説となっている「一九二七年」でもなければ、はたまた「昭和三年」でもなかった可能性が出てきた。なお、もちろんこの訪問が「大正15年の秋」でないことも明らかだろう。なぜならば、森が心臓脚気と結核性肋膜炎を患って岩手に戻ったのは大正15年11月下旬<『森荘已池年譜』より>だからだ。よって、「羅須地人協会時代」に森が下根子桜を訪れた際に道で露とすれ違ったという<現通説>は森の単なる虚構であった、という私が恐れていたことが現実味を帯びてきた。
 そしてそれは、次に述べることからますます現実味を増してくることがわかる。実は、上田は前掲論文の中で、
 森は彼女に逢ったのは、〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。
と述べているのだが、森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』の中では、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
とも述べていて、しかも「この女の人」とは前後の文章から露のことを指しているということが直ぐ読み取れるからだ。つまり、上田に対しては、「その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった」と森は語っているのに、別のところでは、「露が結婚してからも森は露に会って取材している」という意味の記述をしていることになる。
 明らかにこれらの間には矛盾があり、森はその場しのぎのしかし決定的な嘘をついていたという虞が出てきた。もはやこうなってしまうと、一度しか会っていないと証言しておきながら、別の場所ではその他の機会にも会っていると述べているくらいだから、やはり「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」は虚構であり、森は一度も露とは会っていなかったということさえもあり得る、ということをそれこそ真剣に考えなければならなくなった。

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