本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった

2015-10-23 08:00:00 | 捏造された〈高瀬露悪女伝説〉
「賢治伝記」の虚構―捏造された<高瀬露悪女伝説>―
        (『宮澤賢治と高瀬露』所収の「聖女の如き高瀬露」のダイジェスト版)
鈴木 守
 「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった
 さらに大問題となるのが、「昭和六年七月七日の日記」の中の、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃路に入つて行くと稻田のつきるところから、やがて左手に藪、右手に杉と雜木の混有林に入る。靜かな日射しのなかに木の枯葉が匂い、親しそうな堰の水音がした。
 ふと向こうから人のくる氣配だつた。…(筆者略)…私は目を眞直ぐにあげて、そのひとを見た。
という冒頭部分だ。もちろんこの「一九二八年の秋」という記述は致命的な間違いだ。その頃賢治は既に豊沢町の実家に戻って病臥していたので下根子桜に居なかったからだ。
 そこでどうしたかというと、筑摩書房の「宮澤賢治年譜」は、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と見做している。したがって、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと筑摩書房は判断したことになる。しかしながら、このような判断は安直であり、論理的でもない。時期はさておき、そのような「下根子桜訪問」が当時確実にあったという保証は何らないからだ。
 もちろん、『宮澤賢治と三人の女性』は昭和24年発行だから、「一九二八年の秋の日」と記述するところのその訪問はそれよりも約21年も前のことなので、「一九二八年」という記述は単なる森の記憶違い、ケアレスミスであったということは確かに考えられる。ところが、実はそれよりもずっと前の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』にもこれと似た内容の森の「追憶記」が所収されていて、そこでも
 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
            <『宮澤賢治追悼』(草野心平編)より>
と森は記している。つまり、昭和9年頃から既に森は件の訪問時期を「一九二八年」と記述していたのだ。となれば、それはそれ程昔の出来事ではない。したがって、その年を本来ならば「一九二七年」と書くべきところを記憶違いで「一九二八年」としてしまったとは考えにくい。まして昭和9年頃といえば、森は岩手日報社の学芸記者として頻繁に賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして活躍していた時期でもある。そのような記者が、よく調べもせずに、それ程昔のことでもないのに間違えてしまったというのだろうか。
 しかも、森はその訪問時期を、『宮澤賢治追悼』や『宮澤賢治と三人の女性』のみならず、『宮澤賢治研究』(昭14)でも『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも「一九二八年の秋」としているから、森は決して「一九二七年の秋の日、云々」と書くわけにはいかなかったということになろう。
 そのあげく、さらなる問題が発生する。それは、
 羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで、私は一人の若い美しい女の人に会った。
              <『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、昭63)より>
という森の記述があるからだ。この前後を読んでみれば、これも森の下根子桜訪問時のことを素材にしていること、この「女の人」とは露であることが直ぐにわかる。しかも、この場合でもその訪問時期は通説の「一九二七年の秋」とはなっておらず、はたまた「昭和六年七月七日の日記」にあるような「一九二八年の秋」でもなくて、何とこちらの場合には「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋」、すなわち「大正15年の秋」ということになっているからだ。
 しかし、この『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃であれば、『校本全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)が発行されてから10年以上も経っているのだから、同巻所収の「賢治年譜」は関係者の間では定着していただろう。したがって常識的に考えれば、森が下根子桜を訪問した時期が「昭和2年の秋〔推定〕」となっていることや、その通説が「昭和2年の秋」となっていることを森自身が知らなかったはずがなかろうと思われるのに、だ。
 結局、森はいずれの場合も、「昭和2年の秋」を意味するような記述の仕方は決してしていない。ということはやはり森は「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったということであり、その意味は、今は通説となっている件の「一九二七年の秋」の森の「下根子桜訪問」だが、実はそんな訪問はしていなかったということになろう。

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