岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

下根子桜(12/27、雪白)

2015-12-27 17:00:00 | 下根子桜八景
 一度花巻に降った雪も消え、しばらく冬らしからぬ日々が続いていたが、昨日からまた雪が降り出し今日は一面真白になった。
 そこで、「下根子桜」に行ってみた。「下根子桜」は雪白だった。本日ここを訪れた理由は、この雪白の中でもう決着を付けようというのがそれであった。
《1 》(平成27年12月27日撮影)

《2 いつの間にか新しい案内板》(平成27年12月27日撮影)

《3 》(平成27年12月27日撮影)

《4 》(平成27年12月27日撮影)

《5 》(平成27年12月27日撮影)

《6 》(平成27年12月27日撮影)

《7 》(平成27年12月27日撮影)

《8 》(平成27年12月27日撮影)

《9 》(平成27年12月27日撮影)

《10 》(平成27年12月27日撮影)

《11 》(平成27年12月27日撮影)

《12 早池峰山は雪雲の中》(平成27年12月27日撮影)

《13 権現堂山と胡四王山》(平成27年12月27日撮影)

《14 旧天山》(平成27年12月27日撮影)

《15 高松観音山》(平成27年12月27日撮影)

《16 ヒヨドリジョウゴ》(平成27年12月27日撮影)

《17 スイカズラ》(平成27年12月27日撮影)

《18 オモト》(平成27年12月27日撮影)

《19 イボタノキ》(平成27年12月27日撮影)

《20 ムラサキシノブ》(平成27年12月27日撮影)

《21 サルトリイバラ》(平成27年12月27日撮影)

《22 あっそうだ、この坂道の左手の》(平成27年12月27日撮影)

《23 これ》(平成27年12月27日撮影)

《24 今花が咲いているはずだ》(平成27年12月27日撮影)

《25 ビワ確かに咲いていた》(平成27年12月27日撮影)

《26 同心屋敷がいい感じだ》(平成27年12月27日撮影)


 では何の決着かというと、
 賢治は大正15年4月~昭和3年8月迄ここ下根子桜の宮澤家別宅に住んでいたということになっているのだが
   本日12月27日に賢治がここで暮らしていたということは1日もなかった。
そして、
   12月にここで暮らしていたことも全くなかった。
といってもいいのだと。まあ、もう少し丁寧に言えば
   大正15年12月1日だけは暮らしていたのかも知れないが。
というものである。
 なぜならば、大正15年の12月はほぼ丸々一ヶ月在京していたし、昭和2年の場合は次の「澤里武治氏聞書」から導かれるのだが、12月に賢治は岩手には居なかったからである。

 まず、「澤里武治氏聞書」の生原稿は、 
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもをにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。
             <『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の生原稿、日本現代詩歌文学館所蔵>
となっているし、それが所収された『續 宮澤賢治素描』では、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
となっているからである。
 そして『岩手日報』連載の『宮澤賢治物語(49)』「セロ(一)」では、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(<ママ>)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 …(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
             <昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
であったのが、この連載が単行本となった際には、
セロ  沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…(以下略)…
            <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>
と作者以外の何者かの手によって改竄されている(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)からである。
 何者かの手によって、新聞連載の『宮澤賢治物語』の場合における
   ・昭和二年には先生は上京しておりません。
が、単行本の『宮澤賢治物語』の場合には
   ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
というように、全く逆の意味になるように書き変えられていたからである。
 では何故そんなことができたかというと、単行本出版直前に著者の関登久也が急逝したからである。ちなみにこのことに関しては単行本のあとがきに
 「宮沢賢治物語」は、岩手日報紙上に、昭和三十一年一月一日から同年六月三十日まで、百六十七回にわたつて連載された。歌人であり賢治の縁者である関登久也氏にとつて、この著作は、ながい間の懸案であつた。新聞に掲載されるや、はたして各方面から注目されるところとなつた。完結後、単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸いとして、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼していたということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏におねがいし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。本のカバーは賢治の詩集『春と修羅』の装幀図案を再現したものである。
               (出版局・栗木幸次郎記)
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)288pより>
とある。

 つまり、澤里武治はあくまでも
    ・どう考えても昭和二年の十一月ころ賢治は上京した。
そして、
    ・予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
と証言しているのだから、この形で決着を付けていいのだと。もう迷うことはないのだ、と。実際、拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』で立てた仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
については、その後どこからも反例は突きつけられていないことでもあり、現時点ではこれが妥当な真実であると言えるのだと。

 一方で、『新校本年譜』は12月2日の典拠を「澤里武治氏聞書」としながら、そこに書かれている
    そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
には何ら言及していないから、証言の一部は使い、その一部は無視しているとということになるので牽強付会である、と。
 そう、果たしてこのような使い方が許されることなのだろうか。証言を改竄しているなどという誹りを受けるのではなかろうかということを私は危惧する。
 だからもう、そろそろこの『宮澤賢治年譜』の大正15年12月2日の項のごまかしは、雪白にしてほしいものだ。

 なお、昭和3年の12月には賢治はもうここ「下根子桜」からは撤退していた。

 したがって、
 賢治は大正15年4月~昭和3年8月迄(「羅須地人協会時代」)ここ下根子桜の宮澤家別宅に住んでいたということになっているのだが、「羅須地人協会時代」の賢治は12月という月にここで暮らしていたことは全くなかった(大正15年12月1日だけは暮らしていたのかも知れないが)。
でいいのだ、もうこれからは迷うことはないのだ、と私の中では決着を付けた。そしてこれからの私の課題は、それがどのようなことを意味するかということだ。

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