にゃんこと黒ラブ

猫達と黒ラブラドール、チワックスとの生活、ラーメン探索、日常について語ります

コミュニケーションの違いと意味

2020-02-26 15:36:00 | 日常

 超少子化のせいで、子どもより大人の数が圧倒的に多く、大人による管理や監視が昔に比べてかなり強まっている。

 社会全体に「すき間」や「遊び」がなくなった。大人の目が届かない場所がない。僕らの子供や学生の頃は、大人の知らない場所、大人の指示も干渉も届かない場所がそこそこあった。

 大人たちも生きるのに必死で、子供たちのことなんか構っていられなかったのでしょう。そのいい加減の放任のおかげで、子供たちは自由気ままに遊べた。

 たしかにSNSで子供同士のコミュニケーションは便利になったが、そのシステムを設計し管理しているのは大人たちだ。全部が管理されて「ビッグデータ」に書き込まれている。だから、コミュニケーションの場そのものにも管理の網が張り巡らされ、強い同質加圧が働いている。

 そもそもコミュニケーションということの意味が誤解されているかも知れない。大学生で「私、コミュ障なんです」と自ら言ったりする人がいる。たぶん、「コミュニケーション障害」の略語なんだろうとは思うが、どういう意味で使っているかはわからない。

 よくよく聞いてみると、学生たちが「コミュニケーションが成立している」とみなす事態とは、誰かが「あの店のケーキ、美味しいよね」、「この服かわいいよね」というようなことを言うと、周りが一斉に「そうそうそう!」と手を叩いて、激しく頷くようなふるまいを指しているらしい。
全面的な同意と共感を誇示することを「コミュニケーションが成り立っているさま」だと思い込んでいるらしい。

 でも、コミュ障と自称している人は、他の学生の言うことにいちいち首がちぎれるほどうなずいたり、手が腫れるほどハイタッチしたりすることができない‥‥。きっと、こんな私はコミュニケーションができない人間なんだとカミングアウトしているわけなのだろうか。













 同意や共感にだって様々な濃淡の差がある。それを言葉にしてやりとりを重ねていくうちに、お互いの理解が深まったり、違いを認め合ったり、調整したり合意形成を果たしたりできるようになる。

 それが対話であり、コミュニケーションなんだと思う。



 


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