にゃんこと黒ラブ

猫達と黒ラブラドール、チワックスとの生活、ラーメン探索、日常について語ります

昔流行った『自分探しの旅』

2021-03-06 16:19:00 | 日常

 90年代後半だろうか、「自分探し」という言葉が妙に流行った。サッカーのフランスワールドカップが1998年、日本代表の中心選手の中田英寿は一次予選リーグ敗退後すぐ引退表明して、『自分探しの旅』に出るといい知らない世界へ旅立った。

 どこか自分にとって都合のいい、これまでの自分や人生をリセットするみたいな響きを私は感じていた。ほんとうの自分がどこかに落ちていてそれを拾いに探すというのだろうか?

 「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」このような問いを軽々しく口にする人間が人格的に成長する可能性は、申し上げにくいがあまり高くないと思う。






 自分探しの旅にでかける若者たちはどこに行くのでしょうか?
ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。どこだっていいんです。自分のことを知ってる人間がいないところなら、どこだって。

 自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶんそんなふうに考えている。でもこれはずいぶんと奇妙な発想ですね。

 もし、自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロングインタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか。

 外国のまったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを信じられません。

 ですから、この自分探しの旅のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思う。

 世間の奴らはオレのことを全然わかっちゃいない。だから世間の奴らが一人もいないところへ行って、外部評価をいったんリセットしようというわけです。でもこれはあまりうまくゆきそうにもありません。

 それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないからです。自分のことは自分がいちばんよく知っているというのは残念ながらほんとうではありません。

 ほんとうの私というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通じて、私が「余人を以って代え難い」機能を果たしたあとになって、事後的に周りの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです。

 私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれることではじめて確かなものになる。

 自分探し主義者たちの視線は、自分の外ではなく、ひたすら自分の内側に向かいます。まるで、彼ら彼女ら自身が何者であり、この世界でなすべきことがなにであるかの回答のすべてが自分の中に書いてあるかのように。

 芸能の世界でもそういう人たちがいる。自分探しの旅から帰国して、他者に認められるような人はほとんどいない。上手くいった人は、どこかで自分の外側へ向かってはたらきかけた人であると思う。